バンシー外伝
【言の葉】
序.
例えば、占い師は未来を見る。
運命とかあらかじめ決められた未来を。
例えば、自分の一言でその未来を変えることができたら?
天気予報のように、明日雨が降ると言えたなら、傘を用意して濡れることから逃れられる。
明日洗濯しようと思っていた人は、今日のうちに済ませてしまうことだってできる。
例えば、道を行けば、必ずどこかで分かれ道と出会う。
ただ真っ直ぐに、ただひたすらに続く道はどこにもない。
どこかで枝分かれし、どこかへとまた続いてゆく。
時に行き止まることもあれば、巡り巡ってまた同じ場所へと戻ることもある。
けれど、先へ進もうとすれば、また別の道からどこかへと進むことになる。
例えば、右を選んで進んだ時、もし、左を行っていればどこへ行っていたのか、と。
どんな風景と出会い、どんな人と出会い、どんなことが起こっていたのか。
逆に、出会ってきた風景や人、経験したことは、どうなっていたのだろうか。
例えば。
そう、例えば。
今はただの想像だけ。
誰がいつ死ぬのか。
それを知っててただ見てるだけはつまらない。
死ぬことを避けられるなら避ければいい。
避けられたなら、きっと悪いことは起きない。
悲しむ人がいなくなるだけだ。
雨が降ると分かっていれば、服は濡れないし、風邪も引かなくていい。
右を行って転んだなら、左を行けば傷を作らずに済んだかもしれない。
たった一言。
「明日は近道せずにいつもの道を帰るんだよ」
そう言うだけで、世界は変わる。
1.
窓のない広くて四角い部屋。
その奥に広くて大きな机があって、たくさんの紙が散らばっていた。
机の上には紙の山と筆があるだけ。
室内には来客用の低いテーブルとソファがあるだけで、他になにもない。
バンが名前を言って、シーがそれを膨大な量の紙に記してゆく。
ここにある紙の山は、そのためのものだ。
床に散らばる紙の山を毎日どこかへ運び、そして毎日また紙の山が運ばれて来る。
ただそれだけがここでの仕事。
そして、それはここで存在し得るために欠かせないことだった。
名前を吐くことをやめても、記すことをやめても、二人一緒に消えてしまう。
元は二人で一人だったからだ。
「お前が次の晩死衣(バンシー)か」
目を覚ますといつもと違う場所にいて、たくさんのヒトに囲まれていた。
「不思議なものだな。長くここにいるが、晩死衣だけは理解できん。死ねば次のがすぐに落ちて来る。ここで生きている間に降って来ることもない。どういう仕組みになっとるんだかなぁ」
そう笑って、目が覚めたなら仕事をしろ、と今のこの部屋に案内された。
紙だけが大量にある部屋。
何が起こったのか、何が起こってるのか理解できないまま、筆を渡された。
困惑していると、ああ、すまない、と案内した男が頭に手を乗せた。
「一人じゃ無理だったな。それに、一人のままだと規則違反になるんだった」
そう言って、目を閉じて何かをボソボソと呟くと、激痛と共に二人になっていた。
まるで雷が全身を駆け抜けるような痛みと閃光。
あの時の感覚は体に刻み込まれて、今も思い出せば震えるくらい鮮明に思い出せる。
「名を吐くのがバン、それを記すのがシーだ。さぁ死ぬものの名を吐け」
最初の数年は言われるままに、まるで機械のように眠りもせずに名を吐き、記した。
バンが名を吐くと、言葉が墨文字に変わり、それをシーが筆で受け止めて紙に押し当てる。
そうして記された紙は、一日に五度、真っ白な着物を着た子供が取りに来る。
顔には白い布に不思議な文字が書かれたものを面のようにつけている。
ヒトではないのだと聞いた。
運ばれたものは鬼籍と呼ばれる台帳にされ、最終的に門へと運ばれるのだという。
単調な日々に慣れ、自分のいる世界のことを理解し始めた頃、ようやく心を取り戻していた。
それまで、感情を封印されていたように、まるで機械のように生きていたが、急に、ふと突然に元の自分に戻っていた。
「シー」
呼びかけると、
「何ですか、バン?」
そう答えが返ってきた。
初めてした会話はそんなものだった。
自分と会話をする。
それは不思議な感覚だった。
自分なのに、どんな答えが返って来るか、予想できなかった。
それからしばらくはたくさん会話することを楽しんだ。
バンはころころと感情を変えるが、シーは対照的に常に淡々としていた。
それでもバンは会話することが楽しかったし、シーもバンを特別に思っていた。
「ねぇ、シー」
「何ですか、バン?」
「この部屋の外ってどうなってるんだろう?」
「廊下があるだけです」
「違うよ。もっと外だよ」
「建物の外に出るつもりですか?」
「違う。もっともっと外。この世界の外だよ」
「私達は出られませんよ?」
「でもさぁ、見てみたくない?」
「何をです?」
「私の吐いた名前の人がさ、どんな風な顔してるかってさ」
「見てどうなるのです?どうせ死んでこちらにやって来るんでしょう?」
「そうだけどさ。生きてる人間ってどんななのか、見てみたくない?」
「見たくありません。それより早く続きをお願いします」
つまんないなぁ、と言いながらもバンは名前を吐いた。
「最近、仕事のペースが落ちたようですね」
元老院。
その円卓にまばらに人が座るなり、深刻な声が漏れる。
「会話をしているようですよ」
「心が戻ったか」
「そのようです。外に興味があるとか」
「それはいかんな」
「ええ。どういたしましょう?」
「前の晩死衣のようにいたしますか?」
「いや。そのせいで死期が早まったと聞いたが?」
「寿命だったのでしょう。このまま放置しておくと、秩序に障りが生じましょう」
「じゃが、いかにして閉じ込めておく?」
「閉じ込めずに外に出してはいかがかな?」
その一言に室内はざわめいた。
「晩死衣を出すとっ。そうおっしゃるかっ」
「正気かっ」
「もちろん、ただ出すだけではありませんよ。悲惨な体験をすれば、外への興味もなくなるかと思いまして」
「悲惨な体験?」
「はい。バンが外へ興味を示すのは、外がどんな場所か分からないからです。だから、素敵な場所だと想像してしまうのです。なら、外がどんなに恐ろしい場所か教えてやればいいのです。その目で見て、体験すれば二度と外へ出ようなどとは思わないでしょう」
「確かに。一理ある」
「出すのはバンだけか?」
「はい。シーはバンから剥がれ落ちた片割れ。書き写すだけの能力しか持ちません。恐れるのはバンが外に出ることです。外に興味を持っているのは、今のところバンだけだと報告を受けています。バンが興味を失えば、この件は片付くのでしょう?」
「そうだが……どうやって出す?術師をつけるか?悲惨な体験も術師の手を借りるのか?」
「何もしません」
その言葉に全員が一瞬動きを止めた。
「な、何を申されるか?何もしないとはどういう意味か?」
「行雲流水。それがここの理だということ、お忘れですか?流れのままに、任せてみるのも一興でしょう」
「それでは外に出たまま戻らなかったらどうする?死ぬはずのものが寿命を延ばしたらどうする?」
「バンは必ず戻って来ます。悲惨な体験をして。寿命を延ばす者が出るかもしれませんが、延びるのは少しだけでしょう。その間に大きく世界が変わるなどということは起こりえません。だから、皆様、このままここで座ってお茶でも飲みながら待ってみてはどうでしょう?」
いいお茶があるんです、とその人物は深く被ったローブの下で笑んだ。
2.
吐いても吐いても、それは途切れることがない。
永遠に吐き続けるだけ。
「つまんなぁい」
ふいに名を吐くのをやめて、バンは床に座り込んだ。
「まだ半分もできてない。もうすぐ二回目が来ますよ?」
「シーは書き写すの好きなの?」
「そんなこと考えたことありません」
「じゃ、考えてよ。楽しい?」
「仕事ですから、やるしかないでしょう?やめてしまったらここにいられません」
「じゃあやめてもここにいてよかったら?」
「そんなことありえませんから、早く続きをお願いします」
淡々と事務的な返答に、バンは子供のように頬を膨らませ、勢いよく立ち上がった。
「もういいっ」
バン?とシーがうろたえた声を出したが、バンは走って部屋を出て行ってしまった。
初めて部屋を飛び出して、バンは知らない廊下を迷いながらも駆け抜け、なんとか建物の外に出ることに成功した。
初めて見る外。
その景色に思わず立ち止まった。
辺りをゆっくりと見回す。
全てが不思議で新しかった。
このさらに外は?
人が、生きている人がいる場所は?
そこへ至る道は?
バンは走り回った。
でも、どの道がどこへ続いているのかさえさっぱり分からなかった。
名前と日付以外、バンには文字が読めなかった。
何が書いてあるの?
知っているのは死ぬ人の名と日付だけ。
それ以外の文字は、例え同じ文字でも読めなかった。
意味も分からなかった。
その事実に気づいて、バンは愕然とした。
本当に自分はそれだけを吐くためだけに存在しているのだと。
「どうかされましたか?」
ふいに声をかけられ、顔を上げると男が立っていた。
「み、道に迷った」
そう言うと、男は広いですからねぇ、と笑った。
「見たところ、死神の新人さんですか?半身とはぐれてしまったのですね。下に降りる道はあちらですよ。ご案内致しましょう」
何も説明しなくても、男の方から勝手に勘違いして、行きたい場所へ連れてってくれるようだ。
バンはなぁんだ、簡単じゃん、とさっきまでの絶望感は吹き飛び、外へ出たばかりの時の高揚感を取り戻していた。
「手のひらを貸して下さい」
小さな扉の前で立ち止まるなり、そう言って男はバンの手をとった。
どこからか筆を取り出し、手のひらに何か文字を書くと、扉を開けてバンを促した。
「お気をつけて。帰りは橋を渡れば戻れますよ」
促されるまま、バンが扉を潜ると、さっと扉は閉ざされた。
その音に振り返ると、景色は一転して、喧騒の中にいた。
見渡すと、生きた人が行き交っている。
途端にバンの頭の中に文字が溢れ出した。
行き交う人の名前と日付が頭の中に巡る。
いやだ。
皆死んでしまう。
やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ。
溢れる名前を止めようと、バンは頭を押さえた。押さえたところで、溢れるものを止められやしないことは分かりきっていたが、それでも反射的にそうしてしまう。
その場に座り込んだ瞬間、バンはあることを思いついた。
そうだ、まだここの人達は死んでない。
なら、溢れる名前を止める方法があるじゃん。
それに気づいて、バンはすっくと立ち上がり、信号待ちをしている子供の手を引いた。
数秒後、信号が青になった途端、飛び出して轢かれるところを救うと、名前は頭から消えた。
手を引かれた子供は一瞬ぽかん、とバンを見上げたが、直後、猛スピードで目の前走り去る車を見て、今度は驚いてその場に固まった。
そのまま信号を渡り、渡り切った瞬間走り出した。
辿り着いたのは踏み切り。
下りた遮断機を潜ろうとする人を思い切り引っ張る。
一緒に勢いよく尻餅をついて、バンは頭から名前が消えたことを喜んだが、ホッとした瞬間、起き上がってどこかへと走り去った人の背を満足そうに見つめたバンの表情は一変する。
消えた名前が再び頭を巡り始めたからだ。
後を追おうとしたが、別の名前の存在を見つけて足が竦んだ。
どうして、こうも人は簡単に死んでしまうんだろ。
ふらふらと歩いた先で誰かが誰かを殺し、誰かは病気で死に、誰かは自ら命を絶ち、誰かは事故に巻き込まれ。
名前がぐるぐる巡る。
助けてもまたすぐに死んでしまう。
いつかは死んでしまう。
なんで死ぬんだろう。
「お前は今日死んでしまうよ。ここにいたら死んでしまうよ」
バンは道端を歩く野良猫にそう話しかけた。
猫はバンを無視して細い路地の隙間へ飛び込んで行ってしまった。
疲れた。
そう思った。
何をしても無意味なんだろうか。
そう思った。
「誰か待ってるの?」
ふいに声をかけられ、俯いていた顔を上げると、人が立っていた。
まだ若いけど、ああ、この人も明日死んでしまう。
バンは黙ってその人の顔を見つめた。
「さては、ドタキャン?こんな時間まで待ってたの?」
何を言ってるのか分からなかったから、バンは黙っていた。
「……残念だけど、もう来ないと思うよ?そろそろおうちに帰った方がいいんじゃない?こんな時間だし、最近物騒だからさ、この辺」
バンは言おうか迷った。
言ってもきっと無駄だ。
明日死ななくてもすぐに死んでしまう。
生きてるものはそんなに丈夫じゃない。
でも。
「……明日は近道せずにいつもの道を帰るんだよ」
バンの言葉にその人は瞬いた。
「どういうこと?」
「近道したら死んでしまうよ」
言ってバンは走った。
何か変わる?
名前はまだ消えない。
毎日吐いてた名前はこんなにも生々しい。
顔を見てたら名前を吐けなくなってしまう。
ああ。
もしかしたら。
私が名前を吐くから死んでしまうんじゃないかな。
そんな風にさえ思えてきた。
戻ればまた名前を吐かなくちゃいけない。
なら、ずっとここで口を閉じて生きていようか。
そう思ったけど。
バンは気づいたら橋の前で立ち止まっていた。
シーならどうするだろう。
きっと戻って淡々と仕事をする。
自分が何を書いているか知っても?
多分、シーなら何を見ても仕事をする。
なぜ?
なぜ淡々とできる?
シー。
自分のことなのに、シーの答えが分からなかった。
二つに分かれて、たくさんの時間が経ったせいだろうか。
シー。
シーの答えがどうしても聞きたかった。
3.
「やばっ。もう始まっちゃうっ」
毎週欠かさず見ているドラマ。
そのドラマを見るにはいつもの道じゃ間に合わない。
でも。
近道をすれば間に合うかもしれない。
「近道しちゃお」
そう思った瞬間、昨日のことを思い出した。
かわいい女の子が言った言葉。
「近道したら死んでしまうよ」
その言葉が胸の奥に重く落ちてきた。
あの子、明日って言ってなかった?
普段近道なんてしない。
この道を使うのはもう何年振りだろう?
そういえば、最近この辺りも物騒になった。
でも、ドラマが……
でも、死ぬって……
迷って、結局走り出した。
いつもの道を走った。
あの子、あそこで誰を待ってたんだろ。
あの子、私を待ってた?
あの子、誰?
あの子、何?
「バンッ」
帰りは迷うことなく、元のいつもの部屋に戻れた。
部屋に戻ると、手のひらの文字はいつのまにか消えていた。
「バン、どこ行ってたんですか?」
たった一日だった。
だけど、シーとこんなにも長く別れて一人でいたのは初めてだった。
心配そうなシーの顔は、明らかに動揺していた。
そんなシーを見るのも初めてだった。
「……シー、人を見てきたよ」
その言葉にシーの顔はさらに動揺の色を濃くした。
「なっ……そんなことっ、どうやってっ」
「私が名前を吐くから人が死ぬの?さっきまで動いてたのに、急に死んで動かなくなるんだ。死ぬって……人が死ぬってとても生々しいよ。そんなのを目の前にして、私はこの仕事を続けるなんてできない。何も言わなければ、誰も死なないかもしれない」
バンの悲痛な言葉に、シーはやっとバンの気持ちを察した。
「生きるってそういうことです。物だっていつか壊れる。世界の全てはいつか壊れたり終わったりすることばかりです。だから、大切なんです、全てが。私達の仕事はその終わりを記すだけ。でも、終わりがあれば始まりがあります。始まりを生み出す仕事でもあるんです。終わりを次に繋げるための仕事なんですよ?」
「終わりを次に繋げる?ただ死ぬ人の名前を言ってるだけじゃないか」
「死んだ人はここに来て、また生まれ変わります。生まれ変わるためには死んでここで過ごす必要があります。ね?だから、次へ繋げるために、ここへ迷うことなく連れて来るために、必要なリストを作る仕事です。大切なことだと思いませんか?」
「そうだけどさ、死なないでずっといることはできないの?なぜ死ぬ必要があるのさ?終わりが必要だって思わない」
「必要ですよ。何かを始めるには何かを終わらせなければならない。何かを学ぶためには、何かを壊さなければならない。そうでなければ、進歩は望めません」
「進歩なんて……」
「じゃあ毎日同じことを繰り返していましょうか?毎日同じように同じ会話だけをして過ごす。そんなの退屈でしょう?」
「別に同じことしなくたって……」
「進歩しないってそういうことです。毎日同じことの繰り返し。何かを得るには何かを捨てなければならないんですよ。必要なものが増えれば増えるほど、それを支えるだけの器が必要になりますね?人が生まれるばかりだったら、すぐに鮨詰め状態になってしまいます。限りがあるから、大切にしようって心も生まれますね?」
理解できないよ、とバンは俯いた。
でも、本当にそうなわけではない。シーの言うことは正しい。それは認めているが、でも納得できないでいる。
終わりが必要な理由なんて、きっとどれも納得できるものじゃない。
シーは見ていないから言えるんだ、とバンは思った。
目の前で消えていく命と、壊れてゆく様を。
そう思った瞬間。
知った名前が浮かぶ。
ああ。やっぱり、人はすぐに死んでしまう。
近道をしないでって言った。
近道をしたら殺されてしまうから。
だから近道をしないでくれたのに。
それなのに。
殺されない代わりにバイクに撥ねられるなんて。
バンの頬が濡れる。
「バン?」
シーの言葉で自分が泣いてると知った。
初めて泣いた。
「終わるのって……こんなにも……」
胸が苦しくて、喉に何かが刺さっているようにもどかしくって。
こんな気持ちは初めてだった。
名前を吐くのはこんなにも辛くて悲しくて痛いことだったんだ。
初めて吐く名前の顔が浮かぶ。
それが激しい痛みを伴うことだと知った。
だから、顔を知ることがないよう、こんな部屋で仕事をさせられていたんだ、とバンは理解した。
顔を知ってしまってたら、声を知ってしまっていたら、もっと深く知ってしまっていたら。
とてもこの仕事を続けることはできない。
「バン?大丈夫ですか?」
シーの心配そうな声にバンは思わずシーに抱きついた。
「バッ……」
驚くシーをバンはさらに強く抱きしめた。
「少しだけこうしてていい?そうしたらまた名前を吐くから」
シーはそれに強く頷いて、バンを優しく抱きしめた。
4.
「お前には分かっていたというのか?この結果が」
円卓をまばらに囲んだ静かな室内。
そこにざわめきが生じる。
「誰だって自分が触れたものが鋭いトゲと分かれば、二度と触れようとは思わないものですよ。何でも触りたがる子供に触ってはいけないものを教えようと思うなら、実際に触らせて解らせるのが一番でしょう?」
深く被ったローブの下から、そう薄く笑んだ口元だけが見え、周囲のざわめきは止んだ。
「……学習性無気力という言葉をご存知ですかな?檻に入れた犬に電流を流してやると、檻の扉が開いたままでも犬は外に出ようとしなくなるそうですよ。犬でも学習するのです。なら、学習能力が高いモノならその効果はどうなると思います?無理矢理檻に入れるよりも、効果的な方法というものはあるんですよ」
静まり返った室内に、その言葉はとてもよく響いた。
***
「晩死衣ってなんなのでしょうね?」
お茶を注ぎながら問う青年に、男はローブを脱いで髪をかき上げてくつろぐ。
「境遇を哀れむのか?」
「いいえ。この世界に囚われている者は皆同じような境遇でしょう?的確に自分の境遇を理解できたなら良い経験です」
青年の言葉に男は確かに、と苦笑した。
「この世界はまだ謎だらけだ。誰が創ったんだろうな、こんな場所。悪趣味だ」
「きっとあなたみたいな神サマだと思いますね」
「どういう意味だ?」
「さあ?それより、早くお茶飲んでください。淹れたてが一番ですから」
「はぐらかしたな」
「ええ。はぐらかされてください」
にっこり笑う青年に、男はまた苦笑して湯飲みに口をつけた。
「……行雲流水か。自然なようで誰かの意思を感じる場所だな、ここは」
「せっかく話題を変えようとしましたのに」
「……考えずにはいられんだろ。晩死衣がなんなのか、じゃなくて、ここがなんなのか。それが知りたい。なぜここが存在するのか」
「そんなこと、考えたって無駄ですよ。答えなんて……」
青年は語尾を濁したが、男には解りきっていた。
知りえることは永遠に叶わない。
だとしても。
考えずにはいられないことなのだ。
この世界に存在する限り。
そして。
この世界が存在する限り。
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