【心&クロシリーズ】-外伝-

【黒の大地】

序.

 赤い空。
 黒い大地。
 廃墟。
 地獄。
 燃える世界。
 そこに一人置かれて途方に暮れるというより、夢の中にいるようで現実味はない。
 逃げ惑う人、人、人。
 泣き叫び、うめく人、人、人。
 それを何の感情もなく見つめる目は、虚無。
 頬に触れる地は熱く、上にのしかかる重みは。
 目を動かして見える視界に、母親の変わり果てた顔が僅かに入る。
 そこから身体を起こして、どこかへと早く逃げなければならないのに、身体は一向に動かない。
 だが、たとえ動けたとしても、目に映る世界に逃げる場所などなかった。
「……生きたいか?」
 ふいに頭上から声が降ってきた。
 目を動かしてその人物を探そうとするが、足しか見えなかった。
 こんな場所にいて、こんな状況下にいて、その声はここから切り離された別世界のものに思えた。
 その足があまりに白く、綺麗だったからだ。

1.問答

 僅かに開けた窓から心地良い風が吹き込み、静かな室内には青年が一人、デスクに両足を投げ出して静かに寝息をたてていた。
 そこへそっと扉が開き、青年より少し年上の女性が静かにデスクに近寄ると、にこりと楽しそうに笑んだ。
 デスクの隅には書類の束が山積みなっているのを確認するなり、女性はその書類の束を軽く持ち上げ、青年の足の上に思い切り落とした。
 突然のことに青年は驚いて起き上がろうとし、その拍子に無様に床に転げ落ちた。書類がバラバラと散らばる中、その様子に女性は声を押し殺すようにして笑ったが、青年の殺気を感じてそれを無理矢理引っ込める。
「……人の寝込みを襲うなんて卑怯じゃないかっ」
 青年がそう言うと、女性は視線を床に散らばった書類に落とす。
 その視線に気づいて青年は頭を掻いた。
「……今からやろうと思ってたんだよ」
 急にしおらしく言い訳をするので、女性は思わずくすり、と笑いたくなったが、冷ややかに床の書類に目を落としたまま無言で腕を組んだ。
 青年は嫌そうにしながらも、床の書類を拾い始める。
 全て拾い集めデスクに置くと、椅子にきちんと座り直して一枚一枚に目を通し始めた。
「多分これから忙しくなると思います。まだ新人のあなたにこの仕事は大変だと思うけれど……あまり溜め込みすぎますと、後が大変ですからね」
 女性にそう諭され、青年は頷きながら書類にサインをする。
『花流蓮』と。
 それが青年のここでの名である。
 また字(あざな)を『白日(パイリ)』と名付けられた。
 それがそのまま女性の名となっている。
 ここはいわゆる『あの世』で、青年は既に死んでいる。死んで数年が経っているが、それでもまだ死神としては半人前だった。
 死後、ここで約百年を過ごす。その間、ここで死神や役人など様々な役職に就き、うまくすれば百年で下、つまり現世へと生まれ変われるのだ。
 だが、この女性の場合は少し違う。女性はまだ死んではいない。ただ、人ではないだけだ。たまたま間違ってここに落ちて来たにすぎなかったのだが、ここから出られるのは『門』を通ってやって来たものだけで、だから女性は一生ここから出られない運命にある。こういうことはよくあることで、出られないモノ達はここで死者などの半身をやって一生を送るのだ。
 人でないモノはとても永く生きるものが多く、だから一生のうちに何人もの死神の半身をやり、いくつもの名で呼ばれるモノもある。
 この女性、今は白日という名を得ているが、以前は別の名で呼ばれていた。
 以前は無口で無愛想な死神の半身だったが、今回半身になったこの蓮という青年は、よく寝るが起きている間はよく喋り、またよく面倒を起こした。
 だが、白日はそれをあまり悪くは思わなかった。むしろ好ましくさえあった。
 蓮は自分が正しいと信じたことは、全力で貫くタイプだった。どこまでも真っ直ぐな蓮を見ていると、その潔さに救われることもある。
 ここに落ちたモノはもうどこにも帰れない。蓮は百年後には生まれ変われるが、白日は死ねば消えるだけだ。
 いずれ消えてしまう身であると知って、消えることへの恐怖や哀しみ、絶望といったものに悩まされることもあった。だが、今は蓮といる間はそういうことを忘れることができたし、それはそれで仕方ないと受け入れることもできそうだった。
「……晩死衣はいつだと言っていた?」
「明日だと……それも桁外れの量です。なので、今回は選別が行なわれるそうです」
「選別?」
「何にでも限りというものはあります。あの小さな舟で一度に数万の人を運ぶことはできないでしょう?せいぜい数人というところです。死神の数にも限りはあります。なので『篩(ふるい)』が必要なのです。基準は弔われるか否か。弔われた順に門を越えさせるのです」
「数万?明日何が起こるというんだ?一度にそんなに人が死ぬなんて……」
「何が起こるかなんて、誰にも分かりません。ただ、こちらの世界で分かることは、誰がいつ死ぬかだけです。どういう風に死ぬかも分かりません。ただ、人の寿命が分かるだけです。そう初めに説明をしたはずですが?」
「長々と説明されたことを一度で覚えられるかっ」
「あら。これは基本のこと。試験でも必ず確認されることですわ」
 そう。死んでこの世界に門を越えて入ると、まず役職を与えられるが、本当にその役職が適しているかどうかの試験が行われる。
 試験は二度まで行われ、二度とも落第すると別の職を与えられる。
 試験に合格しなければ、職を与えられないのである。
 試験の内容はほぼ基礎能力などを試されるのが主だが、その役職の基本となる決まりごとを覚えさせれるのだ。
 なので、大抵の場合、最初に見立てられた役職に一度で合格することが多い。見立てる際にどの役職に向いているか、適正を判定されるからだ。
 蓮は一度で合格している。
 死神の基本原則は三つ。
 一つ、生きている人に死ぬ日を教えてはいけない。
 死ぬ日は晩死衣しか知らない。が、死が目前に迫っている人間は死神にも分かる。それを生きている人間に教えて、死から逃れるようなことがあってはならないからだ。
 一つ、正体を明かしてはいけない。また、死神の名を名乗ってもいけない。
 万物は名を持つことでそこに存在する、という考え方がある。体は魂の器であるのと同じように、名もまた存在するための器であると考えている。それゆえ、名は時として呪具の対象となりうる。名を明かすことは、明かした相手にその存在を手中に握られるのと同じことだからだ。
 一つ、行雲流水。
 全ては流れのままに。死は生と常に表裏一体。それゆえ、死を司ることに奢ってはいけない。情を移して死から救おうとか、死を以って救おうなどと流れを変えることは許されない。
 これを全て試験管の前で暗唱させられるだけだ。
 その際にこの三つの原則について、多少の説明がなされる。
 晩死衣が何者であるか、名の持つ重要性等々。その中に先程の白日の言ったことも入っていた。
 だが、蓮は一夜漬けでなんとかして、試験が終わればすぐに原則も説明されたことも頭の中から追い出していた。
 基本を忘れていても、死神となって数年が経ち、自分では一人前に仕事をこなしていると自負している部分もあった。
 それゆえ、蓮は今更基本の話をされ、全く自分が自分の仕事に対して理解していないように言われたのが、なんとなく癪だった。
 白日は常に正しく、常に見下ろす立場にいる。
 いくら白日が蓮を指導する立場にあっても、なんとなく女に説教されるのは気分が悪い。
 話題を変えるべく、蓮は軽く頭を掻いた。
「……弔われた順に門を越えさせると言ってたが、弔われなかったらどうなる?」
「弔われるまで彷徨うことになります」
 白日の言葉に蓮はしばらく考え込むように押し黙った。
 そして、何かを決心した様子で立ち上がると、まだ数枚しか片付けていない書類をそのままに、部屋を出て行こうとした。
「どちらへ行かれるのですか?」
「明日なんだろ?ちんたら書類に目を通してるばっかりじゃ追いつかないだろ。だから今から少しでもこっちに引っ張とくんだよ」
 その言葉を聞き、白日はさっと黒猫の姿になって一足飛びに扉の前まで来ると、すぐに人の姿に戻って蓮の行く手を遮った。
「……どけ」
「駄目です。限界があると今言ったばかりでしょう。聞いてなかったんですか?」
「聞いてたさ。だからって見捨てるのか?」
「見捨てなどしません。ただ、ここへ辿り着くのに平常より時間がかかるというだけのこと。いずれここに連れて来ることには変わりありません。今回は例外なのです」
「でもっ」
「私がここにいる意味が分かりますか?半身のいない魂はここにはありません。この意味が分かりますか?」
 問われて蓮は押し黙った。
「……この問いに答えられたらあなたの思うように行動してもいいでしょう。分かるまでここから一歩たりとも出ることを許しません」
 ぴしゃりとそう言われ、蓮はその場にどかっと座り込んだ。
 白日はその場に立ち尽くしたまま、蓮の答えを待つことにした。

2.答え

 川辺に立ち尽くす青年を見つけ、白日は確か最初に、渡りたいのですかと訊いた。
 青年は笑って、分からないと答えた。
 白日の背後では年老いた男が腰を下ろして二人を見守っている。
「俺は死んだんだな」 
 ぽつり、青年が呟くのにええ、と白日は頷いた。
「ではお前は三途の川の渡し守か?」
「いいえ。死神です」
 そう答える白日の背後の老人を見て、青年はなるほど、と笑む。
「俺を連れて行くのか?」
「そのつもりですが……あなたはまだです」
 白日は川面に視線を落とす。
「まだ……?死んでないという意味か?」
「いいえ。あなたはもう死んでいます。ただ、まだこの川は渡れません」
「なぜ……?」
 その問いに白日は俯き、ちら、と背後に視線をやる。
 そこでようやく老人が口を開いた。
「……誰かに弔われなければ川は渡れぬのよ」
 そう大きくはないのに、よく通る声だった。
「……俺はまだ野ざらしになっているのか」
「……ああ。おそらくしばらくはあのままだろうなぁ。通る者はあまりおらんようだし」
 殺されて山の中に捨てられた。
 青年は自分の死に様を覚えている。
「このまま弔われることがなかったら、俺はずっとここで川を見ているだけか?」
「そうだ。例え誰かに弔われても、それがお前と血の繋がりがある者でなければだめだ。赤の他人に弔われてもここを渡ることはできんよ。船頭はお前のところには来ん」
「そうか……なら俺は永遠にここでこうしていることになるか。肉親は皆死んでいるんだ」
「いいえ」
 そこで白日はようやく首を振った。 
「いつかは渡れます。ただ、その先で消えることになりますが……」
「消える?」
「ええ……」
 頷いたきり、説明しようとしないので、老人が再び口を開く。
「術師に狩られるんだ。弔われぬ者というのは案外多いものでな、それが永遠に地上を彷徨われても増えるばかりだ。だから、一定の時が経てば量を減らすんだよ。術師に狩られれば生まれ変わることはできん。あの世の門っていうのを越えた者だけが、再び地上に戻ることを許されるのさ」
 そうか、と青年は呟いて川を見つめた。
「……ではなぜあなた達は俺の前にいるんだ?」
 その問いに白日は困った顔をした。
 白日もその時まで何も知らなかったのだ。ただ、彷徨える魂を見つけただけだと思っていた。それが渡れぬ魂だと知った今、ここにいる意味などなかった。
 そんな白日を見、老人は柔らかに笑んで立ち上がった。
 尻を軽く払うと、川の霧が薄れ、音もなく舟が岸辺に着けた。
「わしは疲れた。ここにいるのも、また下へ戻るのもどちらもわしには向かぬよ。だから、どちらにも戻らぬことにした」
 青年には老人の言葉がどういう意味だか全く分からなかった。白日でさえ、その意味を分かりかねていた。
 いや。分かりたくなかったのかもしれない。
「悪いな。面倒はかけぬつもりで整理はしておるが、何かあったら全てわしのせいにしてくれ」
 船頭にそう言って老人は青年を舟へと促した。
「本当に……」
 それでいいのか、と問おうとした船頭の言葉を遮り、老人は頷いて笑んだ。
「構わない。行ってくれ。すまないな」
 それが老人との別れで、蓮との出会いだった。
 蓮は勿論覚えていない。門を越えた時点で全ての記憶が消されるのだから。
 それでも白日だけはそれを覚えている。
 だから、蓮が自分のことを顧みずにこの扉を出て行こうとした時、老人と重なって見えた。だから、蓮の中にあの時のことが本人も気づかないところで、少しだけ残っているのかと思った。
 だが、今は老人が蓮を自分の居場所を蓮に譲ったのは、自分に似たところを蓮の中に見つけたからだったのではないかと思う。疲れた、というのは本当は嘘だったのかもしれない。目の前で誰かが不運な末路を辿ろうとしているのを、黙って無視できる人間ではないと白日は知っている。
 それは蓮も同じだった。自分がどうなろうと誰かを助ける。それは容易にできることではない。
 でも、それは決してかっこいいことでも素晴らしいことでもない。側にいる者にとっては。
「半身がいる理由か……俺の教師だとでも言いたいか?門で消されるのは記憶だけだろう?空っぽになるのは地上での思い出だけだ。善悪も分からないほど空っぽにはなっていないぞ。人は記憶で動くんじゃない。心で動くもんだろ。他の死神がどうだか知らないが、お前は俺の側にいるだけでいい。俺に決まりきった答えなんか必要ない」
 蓮は強くそう言って白日を見据えた。白日が出した問いの答え。白日が用意していたものとは全く違うものだったけれど、白日は笑んでいた。

3.炎獄

 黒く熱い地に降り立った瞬間、蓮はあまりの光景にただその場に立ち尽くして、広がる世界を見つめることしかできなかった。
 何が起こったのか。
 それを把握するのは難しかった。
 こんなことは今までになかったからだ。
 上には天国も地獄もない。だが、この光景はどうだろう?
「……なぜ……」
 ただそう呟くしかできなかった。白日も悲痛な面持ちで蓮を振り返り、ただ見渡すことしかできなかった。
「確かに無数だ。キリがない。処理に困るのも……特例だというのも……」
 一度に万の人間が死ぬ。そしてその数はその後も増え続ける。
 戦争。
 それは人の愚かさの歴史でもあったが、愚かさも発展するものなのだと思い知らされた気がした。
 そう思った瞬間、蓮は突然走り出していた。
 白日は突然のことに蓮の背をしばらく見つめ、ふと我に返ったように叫んだ。
「どこへ行くのです?」
 その問いに答えはなかった。
 蓮の足がようやく止まった先には、蹲る黒焦げた母親の死体があった。よく見ると、その下には瀕死の子供がいる。
「……逝きたいか?」
 蓮はそう聞いていた。子供から蓮の姿は見えない。代わりにようやく追いついた白日が子供の視界に入る。
「……生きたい」
 子供はそう言った。女の子の声だった。
 蓮がそっと母親の遺体をどかし、子供を引っ張り出してその場に座らせ、その汚れた顔を手でそっと拭ってやる。
「年は?いくつ?」
 白日がしゃがんで子供に訊くと、子供は掠れた声で七、と答えた。
「お前はまだ小さいけど、もうすぐ……」
 言いかけて蓮は口を閉ざした。死ぬ日を教えることは禁止されている。死神には誰がいつ死ぬかということは分からない。それを知ることができるのは晩死衣(バンシー)だけだ。だが、死が目前に迫っている人間は、死神にも分かる。見た目とかそういうものではなくて、そうなんとなく感じるのだ。
「助けることはできないのか?」
 蓮はぽつり、地面に視線を落として訊いた。
 白日はただ沈黙をもってそれに答えた。
 子供はただ白日の足を見つめている。
 ひらひら揺れるスカートから覗く白い足を。
「……この子はすぐに送れるか?」
「……ほとんどの人が上には行けません。この子は生きることを望んでいます。あなたは連れて行くことを望んでいます。それではダメなんです」
 白日は諭すように静かに笑んだ。
「考えを変えろ、と?」
「何事も発想が大切だと言っているのです。それはあなたの得意分野でしょう?」
 白日の言葉に蓮は難しい問題が解けた子供のように嬉しそうに笑んでいた。
「別に上に連れて行くことはない……?」
「そういうことです。ただ……」
「ただ?」
「それはあなたのエゴでしかないことをよく理解していないとダメです」
「エゴ?」
「そうです。生きることを望んでいるからといって、その望みを叶えることがどういう結果を生むのか、それを知った上で実行しなければいけません。この世界を見て、そして上でのことも考えて……」
「結局どうしろと言ってるんだ?さっきから主張を変えすぎじゃないか?」
「選択肢を示唆しているだけですわ。たくさんある選択肢からよく考えてほしいのです。何の為に決まりがあるのか。その意味をよく理解していないのでは、と思っただけです。特例は処理に困るからという理由だけではないのです。限りがあるのも事実ですけど、あなたがどういう行動をとるかも試されているのですよ?」
 白日の厳しい表情に蓮は子供を振り返った。子供はただじっ、と黒い母親を見つめている。
「……百年というのは平均的な時間です。あなたの行動如何でその時間は変化するのです。早くここに戻りたいなら、決まりに従うことです」
「この惨状を放っておけと?」
「いずれ仕事として関わることになります。任務外のことをすればあなたが……」
「じゃあなぜ笑って扉を譲った?俺の考えに賛同したからじゃなかったのか?なぜころころ意見を変える?」
「私は猫ですもの。気分屋なんです」
 そう意地悪く笑う白日を蓮は睨みつけ、子供の手を取った。
「俺はエゴだろうと何だろうと、一人でも門を越えさせて見せるっ。こんな場所を生きていようと死んでいようと彷徨わせてたまるかっ。それだけの理由じゃダメなのか?」
「失格ですね。まるで話になりません。ま、私の罪はあなたの罪になりますが、あなたの罪は私の罪になりませんからね。お好きにどうぞ。私は別の人の半身になるだけです。あなたは一生門から出られなくなるか、消えるかどちらかでしょうけど。それでも構わないとおっしゃるなら止めませんわ」
 ふい、と顔を背ける白日を睨んで、蓮は子供の手を引いた。
 が。
 その手ごたえに蓮は振り返った。
 子供はその場に崩れ落ち、苦しそうに息をしている。
 よく見ると片足の先が悲惨なことになっていた。
 もう虫の息だった。
「どうするか、決めなければならなくなりましたわね」

4.代償

「死神が眠っている人の足元に立っているならその人は死にません。けれど、枕許に立ったならその人は必ず死にます。それで人の生死を見つめてきた男は、ある日恋人の枕許に死神が立ったのを見て、恋人の眠っている布団を動かして足を死神に向けてしまったのです。人の運命を変えた男は、恋人の代わりに蝋燭の並ぶ場所に連れて行かれ、蝋燭の火が消えぬように新しい蝋燭を接ぎ足していったけれど、つい溜め息を吐いてしまって蝋燭の火が消えてしまいました。その火が消えるのと同時に男は死んでしまったそうです」
 ふいに白日が口にしたのは、死神の昔話だった。なぜ白日が唐突にそんな話をするのか、蓮には理解できなかったが、何か説教めいたものを感じて憮然とした。
「ただの昔話だろう。それと俺とは全然違う。鬼籍は本当にあったけど、俺が枕許に立ったくらいで人は死なないし、その逆も同じだ。鬼籍に上がった人間をこちらに導く。ただそれだけの仕事だろう?」
「確かにこちらには蝋燭もありませんけれど、それでもこの話からあなたが学ぶべきことはありますわよ?」
「決まりは守れって?」
「ええ。それもですが、決まりを破ったならそれ相応の代償を支払わなければならない、ということですわ」
「代償?」
 そう言って蓮は鼻先で笑った。
「この子を助けるなら俺に消えろと?」
「あなたのその行為は偽善だと言ってるのです」
「偽善……だと?」
「ええ。そうです。価値とか意味とかっていうものはですね、人それぞれがその基準を持っているんです。ですから、あなたにとって幸せなことが全ての人に当てはまるわけではないのです。どこで満足するか、その基準は皆違うんです。その子が何を望んでいるか、あなたはまだ分かっていません。また、その望みを叶えることは私達の仕事ではありません。私達の仕事の理念は何か、何度もお教えした筈ですが?」
「行雲流水。流れのままにっていうヤツだろ?でもそれって裏を返せば見て見ぬフリと同じことだろう?」
「いいえ。あるがまま、ということは決してそういう意味ではありません。その子はもう死んであなたの手にあるのは魂となりました。私達の仕事の範疇です。送れば何が待っているか、ご自分の目で確かめて御覧なさい。それがこの先のあなたの良き標となることでしょうね」
 白日はそう突き放すように言って、猫の姿になるとそのままどこかへと駆けて行ってしまった。
 一人取り残された蓮は、頑なに少女の手を引いて岸辺に立っていた。
 つい、と流れてきた舟の船頭は、その子と蓮を交互に見比べ、憐れむような目を少女に向けた。
「この子はまだのようだが……?」
「乗せてくれないのか?」
「……構わぬが……本当にいいのかい?」 
「俺?俺は別に」
「惨いことをするね」
「惨い?」
 蓮は船頭を見返した。自分が酷いことをしているとは思えない。彷徨い続ける方が惨いと思うのだが。
 そう蓮が言うと、船頭は首を振った。
「弔われずにここに来るってことがどれだけ辛いことか、よく知っていると思ったのだけれどねぇ」
 船頭はそう蓮を見やったが、蓮の返答を待たずについ、と舟を岸から離した。蓮はどういうことだ、と訊こうとしたが、すでに舟は深い霧に溶け込んで見えなくなっていた。
「あら、送ってしまったのですね」
 振り返ると白日が猫の姿のままそこにいた。
「船頭は惨いことをすると言っていた。俺は弔われずにここに来たのか?それは辛いことなのか?」
 蓮の問いに白日は軽く溜め息を吐いた。
「船頭はお喋りでいけませんわ。でも、答えは違う、と言っておきましょうか」
「じゃあ俺は弔われてここにいるのか?」
「……ここでは生前の記憶は消されます。ですから生前のことは誰も知らないというのが原則です。でも、知ろうと思えば誰でも知ることができるのです。ここも腐っていますからね。でもその方法はまだあなたにはお教えできません。あなたは自分を知る前に、この世界を理解しなければいけません。理解した上で自分のことを知りたいとおっしゃるなら教えましょう。ですが、知りたくないとおっしゃる方もいます」
「お前はいつも丁寧だが、バカみたいに丁寧になる時は怒ってる時だ。俺は間違ったことをしているのか?」
「よく私を見ていらっしゃるのね。私もあなたを見てきて思ったのですが、そう素直になる時は何か企んでる時ですわ。それは決まって私の肝を冷やすようなことなんです」

5.世界

「白日ッ」
 蓮が役所から走って戻って来るのを、白日は予期していたかのように溜め息を吐いて出迎えた。
「どういうことだ、これは?」
 そう言って蓮が白日の目の前にかざしたのは、一枚の書類だった。
「どうもこうもありませんわ。見たままです。あなたに必要なのはまずこの世界を知ることだとお教えしたはずです。弔われずにここに紛れ込んで来た魂の処分はそこに書かれてある通りです」
「そんな……ならなぜ言わない?」
「私は初めに言ったと思いましたが?ここにはルールがあります、と。それには意味があるんです。あなたばかりがその代償を受けるとは限りません。どこまでが私達の責任か、それを学ばないうちに勝手に行動されると、こういう結果になるのです。それに一応止めはしましたでしょう?」
 白日の言葉に蓮は返す言葉がなかったが、それでも何か言い返したかった。
「……これでよくお分かりになったでしょう?あなたのその行動力は認めますが、少しは頭も使って下さい。何かを学ぶことは無駄なことではありません」
「そうだな……」
 そう言ってその場にしゃがみ込んだ蓮の手が、書類を悔しそうに握りしめたのを見て、白日は嬉しそうに笑んだ。
「弔われずにここに来た魂は、ここに落ちて来た私と同じ。永遠にここに留まり続けます。でも、私とこの魂の違いは門を通って来たか否かです。魂は門を越えてきます。どんな場合でも。ですから、一定の条件を満たして尚且つ手続きを済ませることができれば、また戻ることができるのです」
「本当かっ。どうすればいい?」
 立ち上がって嬉しそうに顔を輝かせる蓮に、白日は満足そうにした。
「それはご自分でお調べになることですね。私が一から十まで全て教えていてはあなたの為になりません。十日以内に役所で調べて全ての手続きを済ませることですね。ちなみに手続きには丸三日かかります。今はどこの役所も込んでますから、さらに時間はかかるかもしれませんが」
 そう白日が言い終わらない内に蓮は駆け出していた。
 その背を見送って、白日は一人、蓮とは逆の方向へと歩き出していた。それは本来蓮が向かうべき役所のある方向だった。

*****

「方向音痴なんです。本人無自覚ですけれど」
 そう言って白日はすっかり冷めてしまった茶をすすった。
「今でも治ってないんだろ?」
 向かいに座る玄月が笑って言う。
「ええ。治るわけがありません。無自覚なんですから、治そうとも思わないんですわ。結局手続きに五日。条件をクリアするのに四日。ギリギリでしたわ」
 溜め息を吐く白日に玄月が最初は苦労するよなぁ、と同情の言葉を吐き、でも、と隣の鬼流心を見上げる。
「こっちは今でもコレだからなぁ……」
「ご苦労、お察し致します」
 いつもはフォローを入れる白日が、今日ばかりはしみじみと素直な意見を述べた。
 当の心はただ小さくなるばかりである。
「うちのコレも実のところ、弔われていないんです。ただ、うちの場合は私の前の死神がその席を譲る形をとってくれましたので、手続きなどは略式で済みましたし、コレは未だにそのことを知りません。それに今ではこれですもの。人様の前だろうがこうして居眠りばかり。まるで大きな赤ん坊ですわ」
「でも、幸せそうですね」
 ふいに心が漏らした感想で、珍しく白日は顔を赤らめて俯いた。
 その反応が心にも珍しかったが、玄月にはとてもおもしろい反応だったらしく、大爆笑してしまった。
 まるで見た目と同様、中身も小学生のように「赤くなってやんのぉ」と指を差して笑い転げている。
 クロッ、と心は一応たしなめてはみるが、心に玄月を止められるわけもなく、隣で白日を伺いながら困るばかりである。
 それを止めたのは白日のわざとらしい咳で、自分を落ち着けるように深呼吸をし、冷ややかな目つきで玄月を見下ろした。
「それはそうと、お仕事のお話でしたわね。ついついコレが寝ている間に昔話を長々としてしまいましたわ。このリストに載ってる方達を連れて来て下さい。恐らく、このうちの一人は今のお話が参考になるかと思いますわ」
 差し出された紙を手に、心は淡々とそこに連ねた名前を見つめた。
「なぁんだ。ただの昔話じゃなかったのかぁ」
 リストを真剣に見つめる心の横で、玄月はそうつまらなさそうにした。
「当然です。意味もなくこんな話は致しませんわ。よろしくお願いしますね、鬼流様」
 にっこり笑う白日の顔がいつもより冷たく見えるのは、勿論先程玄月が笑い転げたせいだった。

終.

「とっくに目は覚めてらっしゃるんでしょう?」
 玄月と心が部屋を出て行ったのを見届けて、白日は相変わらず机に足を投げ出して目を閉じたままの蓮に溜め息を吐いた。
「ばれてたか」
 片目を開けて苦笑し、ゆっくりと足を床に下ろして大きく伸びをする。
「いつから起きてらしたんですか?」
「んー、玄月が爆笑したので目が覚めた。お前が赤くなったとこが見たかったが、タイミングを逃してな」   
 ニヤッと笑う蓮は確信犯である。
 白日は意地悪ですわね、と表情を隠すように猫の姿になった。
「ところで仕事の話をするのになんでお前はいつも時間がかかるんだ?」
「先輩としての仕事の実績を例に出させて頂いてるからですわ。あなたの過去のご立派な仕事っぷりが参考になれば、と思いまして」
「ご立派ねぇ……そうか、お前のストレスはそこで発散させてるんだな」
「ストレスだなんて。自慢しているだけですわ」
 口で白日に勝てたことは未だにない。しかし、蓮はこの会話を楽しんでいた。
「幸せそうだなぁ」
 でも、今日は初めて勝ったかもしれない。
「初めから狸だったんですねっ」
 人が悪いっ、と白日はソファの下に潜り込んでしまい、しばらくそこから出て来なかった。
 蓮は少し後悔しながらも、なんだかちょっとだけ気分が良かった。

(了)

 ※ 時系列的には、まだ蓮が死神の時のお話です。デンパンで公開していたものにかなり加筆をしています。