【いちごみるく】
白い足が淡いピンクの水に染められることなくそこにあった。
「ねえ、海に行きたいね」
白い足がぽつりと言った。
僕はそうだね、という言葉をさっきから繰り返している。白い足が言う言葉全てに。
白い足が軽く水を蹴った。たくさんの水の粒が僕の腕にかかった。
「…つまんない」
白い足が水から出て、昨夜拭いたばかりのピカピカの床を濡らした。
点々と足が歩いた道を作る。
開け放たれたベランダの窓から、風がふわりと吹き込んで、白い足は立ち止まった。
「怒らないの?」
白い足はぺたぺた、と音を立ててその辺を歩き回った。
僕は怒らなかった。白い足は美しい。怒る気など、ない。
僕は床に寝そべって白い足ばかり見ている。そして、広告の裏が白いやつを探してそれに鉛筆で白い足を描いた。広告の色はたまたまピンク色。
「足ばかりね」
白い足が広告を踏みつけた。濡れた足で踏まれたので、広告の色が少し濃くなった。
「顔も描いて」
白い足がねだる。
僕はその声を無視する。
「私ってかわいくない?」
白い足はわざと『ブス』という言葉を使わなかった。
僕は美しい、と答えた。嫌がらせだ。白い足は僕と違う世界を生きている。
「足ばかり見るのね」
白い足は広告の上からそっと離れた。
「洗面器の水だけじゃ無意味だわ」
白い足は淡いピンクの洗面器を持って風呂場へ行き、水を捨ててしまった。
僕は少しがっかりした。
昔、人の頭の中で世界は丸くなく、平らだった。世界には果てがあって、全ての水はその果てから暗い宇宙に落ちていっていた。僕も白い足も丸い世界の果てからでも、暗い宇宙に落ちることができる。僕達は違う世界を生きているから。人とは違う世界を見ることができるから。
僕達は世界の果ての名を知っている。
「あなたが足ばかり見るのは、あなたが友達の足を歩けなくしたからですね」
きっぱりとそう言い放った奴は満足そうな顔をしていた。
「あなたが顔を見ようとしないのは、その人に軽蔑されたりそうした目で見られるのが辛いからですね」
僕はそいつがあんまり好きにはなれなかったけど、そこでこの白い足と出会えたからいいことにした。
その時、白い足はもったいないことにとても長いスカートをはいていた。
「醜形恐怖症なんだって」
白い足はさらりと笑った。
顔が見れない僕と顔が嫌いな白い足。
僕達はいい組み合わせだ。とても楽ちんな関係だ。
「ね、聞こえた?セミが鳴いたよ」
一番ゼミだ、と白い足は楽しそうに言った。僕は床で耳を澄ます。セミの声が確かに聞こえた。とっくに夏の気分でいたけど、セミの声はもっと夏を感じさせた。途端に暑く感じてしまう。
「私の夢はね…」
夏の初め、友達が照れながらこっそり教えてくれた。僕の友達はバレエをやっていて、踊ってる時は本当に美しかった。足が真っ直ぐにピン、と伸びて、くるくると回って、とても高くジャンプすることができて、なかなか素晴らしい足を持っていた。
でも、その夏の終わり、僕を庇って友達の素晴らしい足が切断された。どうしてそんなことになったか思い出せない。僕はちょっとした記憶喪失にかかっている。友達は僕と会おうとしてくれない。
友達の夢はバレエで世界一になること。
その夢を僕は奪ってしまった。僕の大切な友達だったのに。
僕が全てを壊してしまったんだ。
白い足がぺたり、と膝をついた。
白い足は短いスカートをはいている。夏だから暑いでしょ、だって。初めて会った時も暑い日だったのに、あの時は長い長いスカートだった。
「カキ氷、食べる?昨日カキ氷作る機械買ったの。ガリガリってやるやつ。ペンギンの形をしてるんだよ」
楽しそうに笑う。
「いちごみるく」
僕は広告を丸めて言う。その時、なぜかふっ、と顔を上げてしまった。
白い足の上、その足の持ち主の顔が。
視線が合う。
にこり。笑った顔は。
「いちごみるくね。ちょうどいいわ。それしか買ってないの」
怯えるでもなく、普通にそう言った。
足と同じ、白い柔らかな顔があった。ブスじゃなかった。美しいという表現も違う。
立ち上がって、白い顔はカキ氷を作る為にキッチンへ消えた。
僕は丸めた広告を手に握って、それからそっと開いて、そこに白い顔を描いた。
セミが鳴いている。
外は快晴。夏の光が溢れ、部屋いっぱいに満ちている。
それでも、僕達は世界の果てを見つけて暗い宇宙に落ちていく。世界の果てに『絶望』を見つけて。
でも。
「いちごみるく」
笑って差し出されたカキ氷を床に座って食べながら、僕は別の名を探し始めた。
僕の頭の中で世界は平らから丸く丸く変わっていく。丸い世界では、水は宇宙の闇の中に落ちてはいかない。
鏡がなかった白い足の部屋に、小さな鏡を見つけた。長いスカートから短いスカートをはくようになった白い足。
僕も少しずつ、世界に光を見つけていきたい。
僕は数日後、友達に手紙を書いた。何度も何度も書き直して、たくさんたくさん言葉を探して書き上げた。
僕は今、友達の返事を待っている。
僕の記憶はまだ戻らない。