【心&クロシリーズ】
【一炊の夢】
序.
ひらり。
桜が散った。
池に落ちる。
波紋が小さく広がる。
「契約成立だな」
男は口許を歪めた。
笑っているのか。
目は笑んでいない。
本当にこれでいいのか。
「娘は返したぞ」
静かな声がよく響いた。
す、と男は私の背後を指差した。その先には、満開の桜があった。
「それが目印だ」
私はただ、俯いた。
満開だった桜が、一気に花を落とした。
池にバラバラと波が立つ。
池が淡く染まった。
1.散る桜
ひらり。
桜の淡い花弁が一枚、膝の上に落ちた。
浪人が決定した。
青い空を見上げていると、そんなことはどうでもよくなった。
「いい天気だなぁ」
春の昼下がり。人もまばらな公園。
ここには桜が咲いている。
ベンチにだらしなく腰をかけて、のんびりと春をしみじみ感じていると、視界を一羽のカラスが横切った。
「落ちたんだってな」
ベンチの後ろから小学生くらいの少年が、ニカッと笑って顔を出した。
「まぁなぁ…」と気の抜けた返事を返すと、少年は声を上げて笑った。
視線を空から目の前に戻すと、少年は僕の横に腰を下ろした。
いつのまにか少し離れた場所で、小さな子供と母親がボール遊びをしていた。
スカートをはいてるから、女の子だろう。
転がるボールを子供が笑いながら追いかける。
どこにでもある普通の親子の風景だった。
だが。
「なんか妙じゃないか?」
僕がそう違和感を訴えると、少年はそりゃそうだろ、と呆れた調子で頷き、そんなだから落ちるんだろ、とまた笑った。
子供が転ぶ。母親が慌てて子供に駆け寄り、大丈夫、と声をかけている。
子供は痛がる様子がなく、きょとん、としている。
転んだ拍子にめくれたスカートから、パンツが丸見えになってるのを、母親が直している姿が微笑ましい。
「どうにかしろよ」
少年は僕の肩をパシッ、と叩いた。
「どうにかなったら、僕の未来は明るくなるかな?」
なるんじゃないか?と少年は楽しそうにした。
僕はしばらくその親子を眺めていた。
2.落ちる桜
澄んだ水面に桜の枝が映る。
夜にはそこに月が重なり、美しい姿が浮かび上がる。
だが。
花弁が風に舞い、水面に落ちる。
波紋が広がり、それまで美しく浮かび上がっていた景色が歪む。
花弁一枚。
ただそれだけで、そこに映っていたものが消えた。
春の昼下がり。
僕と少年は翌日もまた同じ時間に公園に来た。
ボールが転がる。
公園に入るなり、僕の足元でボールが止まった。
それを子供が走って取りに来る。昨日の女の子だった。
膝にはバンソウコウが貼られていた。ガーゼの部分が紅く滲んでいる。
「年はいくつ?」
僕はボールを拾い上げ、屈んで子供と目線を合わせて訊いてみた。
子供は僕を見上げ、四つ、と指を三本出して言った。
「四つだとね、指が一本足りないね」
僕は笑って言ったが、多分子供は小さくて理解していない。
「名前は?」
そう訊いているところで、母親がすみません、と言いながら僕からボールを受け取り、そそくさと去る。
なかなか近づけない。
さて、どうしたものか。
「流れを辿れれば早いんだけどなぁ」
僕が苦笑すると、少年は鼻の頭を掻いて、臭いはこの近くなんだけどな、と呟いた。僕は周囲を見渡したが、よく分からなかった。
「夜の方が辿りやすいか…」
僕がそう呟くと、少年は落ちこぼれだからな、と笑った。
夜。
再び公園に入る。
月がとても大きく見えた。
その下で、満開の桜が揺れていた。風が冷たい。
「あれだけ花があまり咲いてないな」
この公園の奥には桜並木とまではいかないが、数本の桜が並んだ道がある。
側には水溜りのような小さな池がある。
池の水面は散った花弁で半分程覆われていた。
その池に一番近い桜の木が一本、それだけが花をつけていない。他の木は全て満開だというのに。
「見ろ。傷だ」
少年がその木の幹を指して言った。確かに傷がある。その傷は特別な意味を持っていた。
「これはプロの仕事だな」
少年が真剣な表情で傷口を見つめて言う。
こういうことに関して、僕よりこの少年の方が詳しい。
「じゃあ、あのお母さんが誰かに頼んだってこと?」
「頼んだってより、そいつの方から営業でもしたんだろ」
「営業?」
僕が問い返すと、少年は溜め息を吐いた。
「そんくらい分かれよ。だから試験に落ちるんだよ」
僕は素直にごめん、と苦笑する。
「普通はな、プロのことを知ってる人間ってのはいないんだ。だから、向こうからそういう人間捕まえて、こんなことできるけど、契約しないか?って持ちかけて来るんだよ。人間はそういうのに弱いからな。すぐに契約の内容なんて聞かずに頼んでしまうんだ」
説明されて僕は改めて傷口を見た。
「悪徳商法だよ」
少年は少し怒っていた。僕もそれはおかしいと思った。
「じゃあ、どうすればいい?」
「プロは放っておけ。それは別の奴等の仕事だ。俺達はあるがままに戻すだけだ。そう習っただろ?」
うん、と僕は頷く。僕は僕にできることをする。できないことはどうしようもない。それはとても残酷な気もするけど、限界はどうしてもある。僕は万能じゃない。その上落ちこぼれだ。
「この傷を消して、流れを元に戻せば花が咲く。そうすれば…全て元に戻る、だね?」
僕が確認すると、少年はそういうこと、と静かに頷いた。
3.闇の桜
昼間、春だというのに黒いコートを着た青年が公園にいた。
昨日も見た。今日は娘に話しかけていた。
母親の私以外にはあまり話さない、人見知りの激しい子なのに。
娘は普通に話をしていた。
怖かった。
その青年が娘をどこか遠くへ連れて行く気がしたからだ。
また、一人になるような気がして。
とても怖かった。
四年前。私は夫と離婚した。
離婚後、夫の子供がお腹にいることが分かった。
でも夫には何も言わなかった。もう、他人だったからだ。生まれた子供は女の子で、とても愛らしく、大変だったけど癒された。一人じゃない、とそう思えたから。
その娘が死んだ。
娘はまだ一歳になったばかりだった。
風邪だった。ただの風邪をこじらせて死んだのだ。
それだけで?
私は温もりの消えた小さな娘の身体を抱いて、ただ悲しいというより驚いていた。
すぐに病院には行かなかった。死んだということを受け入れられなかったからだ。だから、涙も出なかった。
「娘を返して欲しいか?」
死んだ娘を抱いて、私は多分、眠ってしまったのだ。
それは夢だった。
男が現れて、娘を生き返らせてくれる夢。
いや。娘は死んでなどいなかった。
そう。娘が死んだということが夢だったのだ。
嫌な、本当に嫌な夢を見た。
目を覚ますと、娘はやっぱり生きていた。
ちゃんと背も伸びた。ご飯も食べる。いつもの生活だ。変わらない、何も変わらない娘がそこにいた。
ただ、表情が極端に乏しいように感じたが、娘と一緒にいられるならそんなことはたいしたことじゃなかった。
転んでも泣くこともなく、くすぐっても笑うこともないけれど。
それから三年が経った。
娘は桜の咲く季節になると、とても元気になる。なぜだか分からないけれど。
そういえば。
娘を連れてよく行く公園には桜がある。公園にいる間、娘はどことなく嬉しそうだ。表情には出さないけれど、そう感じる。
桜。
夢にも出てきた。
夢では桜の花は全て落ちたけど。
ことん。
「麻衣?」
娘の名を呼ぶ。部屋は静まり返っていた。
夕食の後片付けの間、麻衣は一人でテレビを見ている筈だった。
私はテーブルを拭いていた手を止め、テレビのあるリビングに行く。
テレビの前のソファ。娘はソファに座らずにその前の床に座ってテレビを見る。
私は予感のようなものを抱いて、そっとソファ越しにその向こうに座って、テレビを見ている筈の娘を覗き込むようにして見た。
私は娘の名を叫んだ。悲鳴に近い声で。
異様な光景が視界に広がる。
床に倒れている娘。
その身体に厚みがない。
娘はテレビの前で。
白骨化していた。
4.咲く桜
闇は夜よりも夜明け前の方が深い。それは夜の底なのか、それとも朝の蓋の裏側なのか。
桜が咲いた。
桜の木の後ろから女の子が現れた。
それは昼間公園で見た子供だった。
膝にバンソウコウはない。転んだ傷は綺麗に消えていた。
僕のするべきことは、僕にできることは、この子が行くべき場所へ連れて行くこと。迷うことなく、そこへ辿り着く為に。
それが僕と少年の仕事。
『栗原麻衣』
そう記入され、本が閉じられた。
表紙には『鬼籍』と書かれている。
「ご苦労。これで試験合格とする」
静かな声がよく響いた。
「名を鬼流心(きりゅう しん)とし、字(あざな)を玄月(シュアンユエ)とする。門をくぐるがいい」
門の前に立つ。
桜の命を死んだ子供に移すことで、あの女の子は生きていた。いや、生きていたのではない。そう見せかけていただけだ。死んだ人間を生き返らせることは誰にもできない。
僕は門をくぐる。
この世とあの世を隔てる門。
光が眩しく満ちている。
その光はこの世とあの世の記憶を消す。僕達の記憶は消えないけれど、多分、あの子のお母さんの記憶は消えているだろう。覚えていたとしても、現実感はないから夢だと思うに違いない。
そして、僕達は門の向こう側に立つ。
僕は振り返る。
桜は散り、やがてまた春が巡れば花を咲かせる。
終わりではないけれど、その儚さは人の夢のようだ。
少年はカラスになっていた。
もうただの少年でもカラスでもない。これは僕の字で呼ばれる、僕の半身だ。
「玄月は呼びにくいなぁ」
僕はそう笑って、クロ、と呼んだ。少年――今はカラスの姿であるが――は、少し不服そうにしたが、それでもいっか、とぼやいた。
『玄』という字は『クロ』とも読む。
「じゃあ、お前は心か」
僕はくすぐったい気持ちでうん、と頷いた。
僕達はそうやって死神になった。
終.
唐の時代。盧生(ろせい)という貧しい青年が、旅人から不思議な枕を借りて寝たところ、夢の中に自分の生涯が映し出された。夢は青年もやがて結婚し、子を持ち、大臣にまでなって幸福な人生を終えるというものだった。
青年が夢から覚めてみると、彼がうたた寝を始めた時に、旅館の主人が蒸していた黄梁(こうりょう)がまだ蒸れていないほんの一瞬のことだった。【一炊の夢】
「嫌な夢…」
目を覚ます。娘を失って三年経つ。
三年間、毎日同じ夢を見た。
娘が生き返って、また幸せな毎日を送る夢。
でも、目が覚めれば娘のいない寂しい生活。何度も娘を奪われた気分になる。
それでもその夢が私の支えになっていたのは確かだ。
だから、あれはいい夢でもあった。
「麻衣…」
呟くと娘の笑い声が聞こえた気がした。
「ごめんね…」
私は涙を流した。
ふと、桜の香りがした気がした。
もう夢の中で娘は成長することはなかった。毎日見続けた夢も今はもう見ない。
振り返ると、それは瞬くような僅かな間の幻だったのかもしれない。