【心&クロシリーズ】

【水の花】

序.

 水辺に映る姿は誰のものだろう。
 すぐ側にあるのに触れることは叶わない。
 それでも触れようものなら、深い湖の底に沈んでしまう。
 水辺に咲く花は触れた代償だと誰かが教えてくれた。

1.

 辺りに夕闇が降り始めた頃、道を行く大小二つの人影は止まった。
 小さな湖をその場に座り込んで覗き込む女性を見つけたからだった。
「危なっ……」
 青年は少年がそう言うより早く駆け出し、湖に落ちそうになる女性を支え、水辺に引き戻した。 
「だ、大丈夫ですか?」
 反動でその場に膝をついた青年は、振り返る女性を見、思わず息を飲んだ。
 悲しみの淵に沈む深窓の姫君の如く、どこか儚げで物憂げな表情を宿した絶世の美女がそこにいた。
 長くゆるやかなウェーブのかかった金糸の髪、氷のように凍てついたアイス・ブルーの瞳、華奢で白く抜けるような肌。
 陳腐で使い古された表現そのままに、美しい女性である。
「……今そこにとても美しい人がいた……」
 は?と青年は女性を見、次いで水面を見やった。
 ナルシスか?
 青年は神話を思い出す。水面に映る自分の姿に恋をして、口づけしようとして溺れ死んだという、なんともマヌケな話がギリシャ神話にある。死んだ後、水辺に水仙が咲いていたらしく、水仙のことを英語で確か死んだ青年の名からナルシスというのだったと思う。ナルシストという言葉の由来もそれだ。
 この人もそれをやろうとしたのか。
 改めて女性を見やると、白い薄手のロングワンピースに裸足というちょっとおかしな格好をしている。初秋のこの時期にこの格好はまともではない。
 ちら、と振り返ると、連れの少年は先程立ち止まった場所に胡座(あぐら)をかいて座り込み、どうやら眠そうに揺れている。
 青年は軽く溜め息を吐き、女性に向き直る。
「家はどちらですか?送りますよ」
 青年はそう言ったが女性は青年を見ていない。湖ばかり気にしている。
「……そこに映ってたのはあなた自身です。他に誰もいません」
「いる。私はあの人に会いに行かなきゃならない」
「この水の底に?」
「そう。あの人が待ってるから……」
 行かなきゃ、と女性は小さく繰り返した。
 青年は困った風に振り返って、少年に助けを求めようとしたが、少年は眠りに落ちていた。
 困ったな、と呟いて、青年は湖を見やる。
 よく磨かれた鏡のような水面。
 辺りは次第に暗く影を落とし始めていた。見上げるとうっすらと月が見えている。
 夜の方が勘が良くなる。
 湖と女性。
 見比べていると、何か異質なものがそこにあるような気がした。初めからしていた違和感は、女性の服装などではなかったのか。
 青年の中に辛い思い出が過ぎる。
 もしかして、あの時と同じ?

2.
  
 窓辺から舞い込んだ白い鳥は、デスクの上で白い紙に変わった。
 それを見やって、男は楽しそうに笑む。
「勘がいいというのも困りものだな。まずはお手並み拝見とさせて頂こうか」
 頬杖をついて窓辺に視線をやる。外は闇に包まれ、細い月が頼りない明かりを落としている。
「神天にましまし……か」
 呟いて机上の紙をを窓に向かって投げた。それは窓を出ると同時に再び白い鳥となってどこかへと翔けて行った。


「んー?」
 ちり、と何かが頬に触れた気がして、少年は目を覚ました。
 周囲を見渡して、顔をしかめる。
 目の前、少し離れたところでは、まだ青年が女性と何かを話している。側にある湖と女性とを見比べて、少年は軽く溜め息を吐いた。
 いつのまにか日は完全に沈んでいる。
 見上げると空が曇り始めていた。細い月が今にも掻き消えそうになっている。
 まずいな、と心の中で呟いて、軽く目を擦って立ち上がる。
 尻の土埃を軽く叩いて落とすと苛ついた声を出す。
「おいっ、いつまでお喋りしてンだ」
 ずかずかと二人に近づいて、少年は女性を睨みつけた。
「行くぞっ」
 そう言って青年の首根っこを軽く引いたが、青年はでも、とその場に留まろうとする。
「俺はこう暗くなるとあんまし見えねぇんだよ。雨だって降りそうじゃないか」
「でも、このまま放っておけないよ」
「お人好しにもほどがあるぞ。いいから行くぞっ」
「嫌だっ」
「嫌だとぉ?」
「またあんな思いしたくない……」
 俯く青年を見、少年は軽く溜め息を吐く。
「どうしようって言うんだ?」
「僕にできることをするだけだ」
 言うなり青年は湖に飛び込んだ。
 一瞬、驚いた少年だったが、すぐに怒りが込み上げてくる。
「相手がバカばっかりだと助かるな」
 少年はきつく女性を睨む。女性はとても楽しそうに笑っていた。

3.

 水の底は見えない。
 どこまでも暗い闇が広がっているだけだった。
 そこに突如、白い手が視界いっぱいに広がり、青年の首を掴んだ。青年はもがいてその手からなんとか逃れようとしたが、女の手のように見えたそれは、物凄い力でさらに深みへと誘う。
 おまけに水中ではうまく力が入らない。青年は強く少年の名を心の中で叫んだ。
「でも、今度ばかりは相手が悪かったな」
 ニッ、と少年が不敵に笑うと、湖から激しく水柱が上がり、水辺に青年が激しく咳き込みながら転がった。
 青年の横には千切れた腕が二本、青白く転がっている。
 その光景に女性は恐怖に顔を歪めた。
「心っ!よく見ろ。これが人間か?違うだろっ」
 先程の水飛沫を浴びて、濡れた女性の両手両足には鱗が浮かび上がっていた。青年の側に転がる腕にも鱗とそして水かきのようなものがある。
「ここがどこだか分かるか?ここで禁止されていることも」
 少年に問われて、青年は呼吸を整える。
「……辻?なら、魂を狩ってはいけないんだっけ?」
「自信を持って言えよ。こんなバカでも知ってることだ。欲に負けたことを後悔するんだな」
「お、お前達は……っ」
「そうだよ。死神だ」


「っ……くしゅんっ」
 ずぶ濡れのまま歩いているうちに、青年は風邪を引いたらしかった。
「かわいいくしゃみだな」
 少年はうんざりした様子で深々と溜め息を吐く。
「もしかしてお前、幽霊とでも思ったのか?で、おまけに試験の時みたいに術師が絡んでるとでも?」
 青年は恥ずかしそうに頷く。
「だからお前はバカで落ちこぼれのままなんだよ」
「自分はぐっすり寝てたじゃないか」
「当たり前だろ。これくらい一人で処理できなくてどうする?ちんたらやってるから眠くもなるだろ」
「どんな時だって常に寝てるじゃないか」
「常にお前がバカだからだろ。でも危なくなったら助けてやってるだろ?」
「腰を思い切り打った」
「助けてやったんだから礼くらい言え」
「礼?ならご飯くらい作れるようになってよね。僕は毎日感謝されてないよ」
「俺の方が年上だからな。年下は目上の者を敬って当然」
 何か言い返そうと口を開きかけたが、代わりに出たのはくしゃみだった。
「ほら、もうすぐ家だ」
 前方には小さな赤い屋根の家が暗闇に見え始めていた。
 と、雨が降り出す。
 緩やかだったが、すぐに強さを増すと思われた。
「洗濯物っ」
 ふと叫んだ心の言葉で、二人は同時に走り出していた。

終.

「気づかれたか」
 雨に濡れてふらふらと舞い込んだ鳥は、窓の側で力尽きてその場に落ち、やがて床に吸い込まれてしまった。
「鬼流心に玄月か。おもしろくなりそうだな……」


 湖の底は暗くて、どんなに高く日が昇ってもここまで光が届くことはなくて。
 ここは同じように堕とされたモノ達の牢獄。
 ここから出るにはたくさんの魂がいるのだと聞いた。だから、出してあげたくて彼らの為に魂を……
「そんなものでここから出られるわけないじゃないか」
 え?
「ここに堕ちたらもうずっとここから出られないのさ。こんな水の底で他にすることがないんだ」
「寂しいんだよ」
 そんな。
 くすくすと笑う声が波紋のように広がる。
「楽しそうだな」
 ふいに水面に影が揺らぐ。暗い色が光を遮った。
「道を繋いでここに誘い込んだが……あまり期待通りにはいかなかったな」
 水がざわめく。ざわり、と恐ろしい感触が身体を包む。
「これは俺が受けた仕事だ。死神は報告までしかしない。残務処理は術師の役目だ」
 眩しい光が湖の水面から放たれ、やがて消えた。
「これで普通の湖に戻ったな。道も戻したし……問題はあのチビか」
 男は呟いて静けさを取り戻した湖を離れた。