【心&クロシリーズ】
【心の円】
序.
心の中で丸く円を描く。
それは人によって大きさも形も異なる円だ。
それでもいつか、誰かの円と自分の円が重なって、それが同じだったらいいと思う。
いつか同じ円を持つ人と出会えたなら。
いつか。
1.
日中はまだまだ暑いが、朝夕は肌寒さを感じるようになった。
寒がりの玄月の為に、早くもこたつを出したのだが、心はしまった、と思わずにはいられなかった。玄月が一日中そこから潜り込んだまま出て来なくなったのだ。
今までも家事一切を心がやってきていたのだが、それでも以前は渋々玄月も手伝ってくれていた。食べ終わった食器を運ぶくらいはしていたが、それも今はない。
「クロッ!」
こたつでぬくぬくとしている玄月に、心は溜め息混じりにそう叱咤したのだが、こたつに深く潜り込んだ玄月の返答はない。
「ご飯できたのを運んでくれない?」
そう頼んでも無視である。
もうっ、と諦めかけたその時、心の視界がぐらついた。あ、と思う間もなく意識を手放していた。
その倒れる音でようやく玄月はこたつから顔を出し、心の姿を認めて飛び出した。
「バカッ」
心の額に手を当てて玄月は叫んだ。心に対してもだったが、自分に対してもその言葉は向けられていた。
「……あれ……?」
気がつくと、心はベッドに寝かされていた。
額に手をやると、濡れたタオルがあった。
「これ、雑巾にする予定のタオルなのに……」
心は呟いて、これを用意した玄月の姿を想像した。少しおかしかったが、それでも心配しれくれてることが嬉しかった。
視界がぼやける。
体がだるい。熱が相当高いのだと自分でも分かった。
死んでるのに病気になるのは不思議な気がした。
前に玄月から風邪くらいは引くのだと教えてもらったことを思い出す。強い毒気に当てられると、やはり体に負担がかかって病気になるのだという。死んでいるのだからそれで死ぬことはないし、かかる病気といっても風邪くらいのものだと聞いた。怪我もする。痛みも感じる。けれど、すぐに癒える。腹も減ってご飯を食べる。ただ、生きている時よりも食べる量はとても少量でいい。動くには死んでもエネルギーは必要なのだ。飢えても死ぬことはない。生きてる時とあまり変わらないけれど、ただ一つ違うのは死なないという点だけだ。唯一それが変わったことで、玄月とは違うことだ。
それを考えると心は胸が痛くなる。喉に何かが刺さっているような感覚がする。心は門を越えてここに来た。だから、心にとってここは通過点に過ぎないが、玄月は違う。永遠にここに留まり、やがてはここで消滅する存在だ。
消える。
それは電気のスイッチを消すのと同じことだろうか。さっき倒れた時みたいに、急に目の前が暗くなって、それで全てが終わってしまうのだろうか。
死ぬってどういうことだろう。消えるってどんな気分だろう。
心はそれを確実に経験してここにいる。だが、門で記憶を消されてしまったから、それがどんなものか心には分からない。
でも、プチッと何かが終わるのは、全てが終わってしまうのはあまりにも寂しい。
いつか。
それを思うとどこかがチクリと痛んだ。
目を閉じると暗闇が広がる。
その耳に台所からガチャガチャと玄月が奮闘する音が聞こえた。消える時には何も音がしなくて、五感の全てが遮蔽されるのだ。そして、今思ってるいろんな気持ちも。
2.
「くっそ。どこだよ、塩っ」
椅子の上に立って戸棚という戸棚を開け、しゃもじを片手に周囲を見渡す。
そうこうしている間に鍋が沸騰して中身が溢れそうになってるのに気づき、慌ててスイッチを押して止める。
「くそっ」
普段家事の全てを押し付けてきたため、玄月には何がどこにあるのかさっぱり分からない。お粥を作ろうとしているのだが、鍋の中を覗くと得体の知れないものができ上がっていた。
見た目はアレでも、と味見をしてみたが、見た目と同様べちゃべちゃした食感が嫌悪感を与える。
ちら、と玄月は心の眠る部屋に目をやった。
風邪を引いていることは知っていた。くしゃみをしていたが、倒れるまであんなに熱が高いとは知らなかった。
心がいつもと変わらず家事をこなし、いつもと変わらずそこにいたから。
「別れが辛くなるだけよ」
いつだったか同じ死神の半身をしている者にそう諭されたことがった。
死ぬまでここから出られない玄月と違って、心にとってここは通過点に過ぎない。
半身はここに偶然落ちて来たモノだ。死神や術師など役職のあるモノは死んで門からやって来たモノである。半身はまだ死んでいない。だが、ここで死んでも心のように一定期間が過ぎればまた生まれ変われるわけではない。ここで死ねばそれで終わりなのだ。
門を越えたか越えてないか。それはとても重要なことだった。
だから、死神に心を移しても自分が辛いだけだと言われた。二人の距離が縮まればそれだけ、別れの時が辛くなる。だから、距離を保つことが大切なのだと言われた。
「だからって簡単にできるかよ……」
心と初めて出会った時を思い出す。あれがお前の死神だと紹介された時のことを。
酷く辛そうな顔をしていたから、酷い死に方をしたのかと思っていた。術師試験を受けるはずが、死神へと変更になったと教えられた。そういうことは希にあるが、その時はなぜか驚いた記憶がある。
なぜだったか、と思い出そうとしたが容易に思い出せそうになかった。
ふと、ある人物を思い出し、玄月はめちゃくちゃな台所をそのままに、カラスの姿になって外へ飛び出していた。
3.
「よお」
「お断りです」
役所の窓口で初老の男は玄月の顔を見るなりそう言った。
「まだ何も言ってないだろ?」
「用件は分かってますよ。どうせろくでもないことでしょ」
「ちょっと調べてもらいたいことがあるだけだよ」
「お断りです。バレたらクビ程度では済みませんからね」
「勿論、ロハで頼むつもりはない。これでどうだ?」
玄月は片手を挙げ、指を三本立てた。だが、男は首を横に振って、片手をひらひらと振って見せた。
「ぼったくりだろ」
「なら他を当たるんですね」
ふい、と視線を逸らされ、玄月は渋々分かったよ、と言い、小声で狸ジジィと呟いた。
「で、何をお探しで?」
「俺の相方の情報。生前のな」
「やっぱり厄介事じゃないですか。その辺でしばらくお待ち下さい。これ番号札ね。分かったら呼びますから」
「早くしろよ」
全く、と男はロビーのソファへ向かう玄月を見やって溜め息を吐きつつも、にやりと嬉しそうにした。
役所はこの世界の住人全ての記録を保持し、仕事や試験の割り振りや手続きから、不動産業まで幅広い業務がある。
この世界で生活するには、全てここを介さなければならないようにできている。
先程の窓口の男は狼(ロウ)といい、玄月が重宝している情報管理者だ。主に戸籍係のような職務に就いているが、ここに集まってくる情報なら大抵引き出せる立場にいる。
これが大した酒豪で、酒と交換に玄月に情報をいろいろ流してくれるのだ。
「何やってるんだろ……」
玄月はソファに座って、呼ばれるのを待つ間にふと落ち着きを取り戻していた。冷静になって考えてみると、今やってることは自分らしくない行動に思えてきた。おまけに心を裏切る行為だ。
やっぱりやめて帰ろうか。そう思ったが、なぜかとても心の過去を知りたくて仕方なかった。
三十分ほどして番号を呼ばれ、窓口でメモを受け取り、玄月はそれを再びロビーのソファで目を通す。
心の生前の名は染谷圭輔(そめや けいすけ)。二十歳の誕生日を迎える直前に交通事故で死亡していた。門を越える際に全ての記憶は消されるが、一番強い感情だけは残される。心に残された感情は『喜び』だった。死の直前、そういう感情を強く宿すことは珍しい。普通は恐怖だとか悲しみだとか、そういった負の感情を残すものだ。それも不思議だったが、何より特記事項の欄に『強い霊感を宿す』とあるのが気にかかった。霊感のある者は術師の試験を受けることになっている。門を越えてすぐ適正を審議され、ここでの仕事が決まり、その職に就くための試験が行われる。だが、あまりにも試験で不合格を取り続けたり、不適と判断された場合は再び審議が開かれ、別の職を与えられることになっている。
だが、心の場合は違った。術師の試験を受ける前に、やはり死神に向いている、と訂正が入ったのだ。こういうことは珍しいことだ。そして、特記事項は赤い二重線で消されていたらしい。
それ以外にさして情報といえるものはなかった。ただ、心の情報は簡単には呼び出せないよう、軽いプロテクトがかかっていたと狼の汚い字で走り書きしてあった。
それがどういうことなのか、玄月にはよく分からない。ただ、今までの死神とは違うのだと感じた。
4.
何とかお粥を作り上げ、玄月はそれを手に心の部屋へそっと入る。
心はぐっすりと眠っていたが、お粥の匂いとそれを机に置く僅かな物音に目を覚ました。
「起きられるか?粥くらいなら食べられるだろ?」
うん、と心はとろんとした目で玄月を見、額のタオルをかざしてコレ雑巾なんだけど、と顔をしかめた。
「悪かったな。何がどこにあるかなんて俺が知るか」
ほら、食え、と玄月は乱暴に粥を指差した。
「よく作れたね」
心の皮肉に玄月はふい、と顔を背ける。心はそろそろと茶碗を手に取って、ゆっくり口に運ぶ。
「うん。クロにしてはまあまあだね。食べられるよ、これ」
「普通はおいしいとか言うだろ。でなきゃありがと、とか」
「ありがと」
熱のせいか味覚が麻痺していたが、それでもこれがそうおいしいと思えるものではないことは分かった。だから、素直に礼だけ言ったのだが、玄月はそれすらも言ってもらえないと思っていたのか、とても意外そうに心を見、それから俯いた。
「……俺がここに落ちた時、落ちた場所は森のド真ん中だった。おまけに危険区域に指定されてる場所で、狂暴なモノを閉じ込めておく檻として使用されてる場所だった」
突然語り始めた玄月を、心は不思議そうにしながらも黙って聞いた。
そういえば玄月のことなど何も知らないことを思い出し、それを話してくれる玄月を好ましくも思った。
「俺はこれでも火を自在に扱えて、落ちる前は玄華(シュアンファ)って異名があったくらいだ。俺が飛んだ後は火と敵の血が華のように残るから。俺は自分が強いと思ってた。でも、それは奢りでしかなかった。ここはいくら高く空を飛べても、薄い膜のような結界で覆われてるだろ?だから、飛んで逃げても奴等の爪は簡単に俺に届いて、俺はボロボロにされた。毎日必死だった。生きることがこんなにも難しくて大変なことだと、その時初めて思い知らされた。もうダメだって思った時、一人の死神が入って来て俺を助けてくれた。そいつがこう言ったんだ。『私を助けてくれませんか?』って。おかしいだろ?そいつは俺を助けてくれたのに、俺はそいつより弱いのに。でもそいつはとても必死にそう言ったんだ。だから俺はそいつの半身になった。そいつは半身を亡くしたばかりで、半身を探しに危険区域にやって来たと言った。感情のないモノがここにたくさん閉じ込められていると聞いたからって、そいつは困った顔してた。でもやっぱり感情のある方がいいねって。それで俺に半身になってくれってさ。俺は助けてもらったし、そいつの半身にならなってもいいと思った。それからたくさんの死神の半身をやって、たくさんの死神を見て来た。そして、今はお前の半身だ」
そこまで一気に話して玄月はようやく顔を上げて心を見た。
「こんな話をするのは初めてだ。俺はお前を信じたい。お前を知りたい。だから、その前に俺のことも知ってもらいたいと思ってこんな話をした。お前より年はずっと上だが、これでもまだまだガキだ。俺達の時間とお前の時間は流れ方が全く違う。それでも、こうして一緒に仕事する間くらいは、互いを信頼できたらいいと思った。だから……俺の前でくらい弱音を吐け。倒れるまで我慢するな」
分かったか、と言って玄月は立ち上がり、さっさと食え、と言って部屋を出た。
心はその間何も言えなかった。
玄月が急に大人に見えた。いつもは見た目も中身も同じに見えたけど。
「信じるよ、玄月……」
心はそう玄月が出て行ったドアに向かって、かすれた声で叫んでいた。
そのドアの向こう。
ドアを背に玄月はポケットからあのメモを出して、握り潰していた。
「フェアじゃねぇな……」
言ってその場に座り込む。握りしめる手に強く力を込めると、炎が上がり手を開くとそこにはもうメモはなかった。
ははっ……と玄月は苦笑した。床に点々と小さな水溜まりができる。
「こんなっ……こんなことが嬉しいなんて……」
玄月は激しく自分がしたことを恥じ、後悔していた。
「もうこんなことはしない。絶対しないっ」
「おはよ」
翌朝。
玄月が台所に顔を出すと、すでに心が朝食の用意をしていた。
「もう起きていいのか?」
「うん。もう大丈夫みたい。無理してないからね」
そう笑う心に玄月はん、と頷いて笑った。
「それに、僕がちょっと寝てただけでこんなになるんなら、ぐっすりなんて寝てられないよ」
心は困った風に台所と続いている居間に視線をやった。
そこはもうゴミの山だった。特にこたつ周辺が大変な惨事になっている。
台所も心が起きて来た時には、物凄い荒れようだったのだ。
返す言葉もなく玄月がおずおずと朝食の席に着いていると、かたん、と玄関で郵便物が届く音がした。
用意する手を止めて、心がそれを取りに行ってみると、請求書と書いた文字が飛び込んで来た。
「酒代?ごっ、五万って……」
やべっ、と玄月は短く叫んで席をそっと立つ。
「クゥロォ?」
どういうことだよっ、と睨む心の前で玄月は首を竦める。
「それは……あ、仕事に行かなきゃ。じゃ、そゆことでっ」
言ってカラスに姿を変えて窓から出て行く玄月を、心は待てっ、と止めようとしたが止められるはずもなく、もうっ、と溜め息を吐くしかなかった。
終.
心の中で円を描く。
誰かの円と重なって、それが同じならいい。
でももし全く違っても、一緒に円を描き続けてたら、いつかそれも歪に重なって、やがては同じ円になっていくのかもしれない。
ただ一緒に円を描き続けるだけで。
でもそれはとても難しいことだと誰かが言った。