【心&クロシリーズ】
【アリスの庭】
序.
暖かな昼下がり。
眠りかけた淵から違う世界へ落ちていった。
そこは全てが現実とは異なる世界。
けれどそこは現実と僅かに接点を持つ世界だった。
僅かな点の重なりは、いつしか染みのように広がり、二つの世界は徐々に混ざり合っていく。
そうなると、どちらが現実か判じるのは難しい。
夢か現(うつつ)か。
今立つ場所が揺らぐ。その染みを止めるまで。
1.
長い廊下の先に大きな扉がある。
その向こうに大きな円卓がある広い部屋があって、その円卓にはすでにまばらに数人が座っていた。
「先日の評議会の決定に不信感を持つ者が出てきておるようだが、これからどうするおつもりか?」
着席するなり質問が飛ぶ。
「このままではいずれシステムに支障が出るのではないかと我々は懸念しているんだがね」
批判の色が強い。
「……紅(ホン)老子、あなたは少々強引すぎる。どういう考えで動いておられるのか、ここではっきりさせてはどうかね?」
紅か、と内心で溜め息を吐く。
ローブの下に隠してきたことを、そろそろ吐き出してもいい頃かもしれない。だが、その時はまだだ。
「……システムというのは常に時代に合わせて改変していく柔軟性が必要だと思わんかね?同じ時に二人も記憶を持つ者が現れた。これは珍しいケースだ。それに合わせて我々も動く必要がある。そうは思わんか?」
「変わる時が来たと。それが今だとおっしゃりたいのか?」
「ああ、そうだ。紅柳皇の前の半身のことだがな、あれは死亡という形で処理しても問題なかろうかと思う。そろそろ時効だろうて。遺体の一部は確認できてるんだ。扉についての調査は引き続き行なうが、その任を鬼流心に任せてはどうかの?」
その瞬間、室内はざわめいた。
「記憶を宿すものを関わらせるのか?危険すぎる。扉のことを公表するようなものだ」
「それに死神だぞ?おまけにあれは術師の素質もある。扉から遠ざけるためにわざわざ死神にさせたのに、なぜそれを無駄にするようなことを……」
「紅柳のようになったらどうする?あれは死神に向かぬゆえ、仕方なく術師にした結果がこれだ。やはり扉を思い出してしまった。半身のことも、今回の件も……」
ざわめくのを遮って面倒そうに説明を吐く。
「だが、扉を見張ることができるのは扉を見たものだけだということはご存知だろう。開閉が自在になれば問題は減る。半身の数が調整できる上に危険区域を管理しやすくなる」
ざわめきは僅かに静まったが、すぐにまたひそひそと反論する声が囁かれる。
「外に漏れることを恐れているならば、鬼流心を鬼籍から外すことで問題は解消される」
ざわめきは再び大きくなる。
「鬼籍から外すということがどういうことか分かっておっしゃっているのか?」
「ああ。分かってる。永遠の命を与えることと同義だな。だが、魂だけの命だ。生まれ変わることはない。言い換えれば死んだままということかな」
「簡単におっしゃるが、そういう例は過去に一度もない。一度も、だ。そういうことが可能だということは昔から言われてきた。だが、それを実行に移したことがないのには理由があるからだ。我々も危険を負うことになる」
室内は水を打ったように静まり返った。
「……だからいつまでも扉が壊れたままなのだ。システムは常に変貌を求めてきた。そして何度も裏切られてきた。その結果、我々に今皺寄せがきているのがまだ分からないのかね?」
長い沈黙が降りた。
それを破るように席を立ち、退室する。
ローブの中で深く溜め息を吐いた。
「石を投げるのはあと一回だな」
それを思うと自然と苦笑が漏れた。
2.
風向きが変わった。
心は向かって来る風が肌を滑る感触に目を閉じた。
見るのじゃなくて、感じること。
思い出すのじゃなくて、過去を感じること。
自分のこと。
そして、扉の開け方。
「思い……出した……」
記憶の欠片が全てを繋いでいく。
まるで洪水のように押し寄せる映像の断片。それが一つの映像になっていく。
「扉は閉じてるんじゃない。ずっと開いたままなんだ」
心の言葉に男はご名答、と笑った。
「そこまで思い出せたのは君が初めてです。紅柳でさえ扉の姿を思い出すのがやっとだったんだよ。扉の姿に惑わされて、彼は閉じたままだと思い込んでいた。だから、別の方法で彼の半身を危険な目に遭わせてしまった……通るべきではない道を無理矢理通らせてしまったんだ」
男はそう軽く目を伏せた。
「……玄月を帰すことはできますか?」
「できません。可能ですが、それは無理です。扉を閉じてしまう方が建設的です。そして、その開閉を監視することが必要になるでしょう。半身はここには必要不可欠な存在です。人だけで世界が成り立っていないように、ここも人だけでは成り立たないようにできているんです。だから、どうしても理不尽だけど扉を閉じたままにはできない。君にも玄月は必要な存在だろう?」
「でも玄月は……」
「それは僕に問うことではない。本人に直接聞けばいいでしょう」
「……玄月はきっと帰らないって言う。なんとなくそんな気がします」
「なら、二人で門の番をしてもらえませんか?誰にも内緒でその開閉を監視し、必要な時にだけ扉を開き、扉を閉める。君にはそれができます。開け方も閉じ方も、僕がしていたのを見ていたでしょう?」
「あなた……が……?」
「リスクも責任も大きい。しかも、この任務は君にしかできないことだ。でも、君には選ぶ権利がある。この役目を引き受けてくれなくても構わない。ただ、引き受けてくれるなら、お礼に君の望むことを何か一つ、叶えてあげよう。僕はサトリであるだけでなく、魔法使いでもあるんだ」
笑って背を向けた。
「ゆっくり考えて。といってもあまり時間がないので、明日、またこの公園に来て答えを聞かせてほしい。日が落ちるまでここで待っているよ」
「……やります」
心の即答に男の足が止まり、驚いた表情が振り返る。
「でもその前にあなたの名前を教えて下さい。それと、本当の仕事も」
真剣で真っ直ぐな瞳に男は笑った。
「それはもうすぐ知ることになるよ。だから今は秘密。言葉には魂が宿るからね。ここではどうしても慎重にならざるをえない。それに、今名を口にしたら結界が壊れて寒くなるよ」
「結界……?」
じゃあね、と男はその場を去った。
男が公園を出ると、途端に寒くなる。
男が結界を身にまとっているのだと、心は今さら気づいた。
「落ちこぼれだなぁ……」
そう呟いて空を仰ぐ。ようやく明けた空に白い息が浮かんで消えた。
3.
「……分かった」
炬燵(こたつ)から顔だけを少し覗かせて、静かに聞いていた玄月はそう呟いた。
心は家に帰ってすぐにベッドに潜り込んだが、結局朝まで一睡もできなかった。そのままいつもの起きる時間がきて、いつものように顔を洗って朝食を作った。
ようやく起きてきた玄月と黙って朝食を片付け、それからようやく昨夜のできごとをゆっくりと話したのだった。
「お前はお前のやりたいようにやれ。俺は俺のやりたいようにやる。だから、お前がそいつの申し出を受けようが断ろうが、お前の好きにすればいい」
「……もし僕が受けるって言ったらどうする?」
「別に。俺は俺で好きにやるさ」
「だから、クロはどうするつもりなんだよ?僕の半身だろ?僕が受けたらクロも一緒にやらなきゃならないんだぞ?」
「でもお前のことだろ。その話を受けたらお前の代わりが来るまでここにいなきゃならないんだろ?俺はずっとここにいる。だから、お前がその話を受けても受けなくてもそれは変わらない。でも、お前は違うだろ?ここから出られるかどうかがかかってるんだ。それともずっとここにいる気か?」
玄月の言葉に心は押し黙った。
玄月と心は違う。置かれている状況がまるで異なることを忘れていたわけじゃなかった。だが、それを言葉にされると辛かった。ただ、玄月の気持を確認したかっただけが、そんな台詞を言わせることになったことが、とても辛かった。
「……もう少し考えてみるよ」
それだけ言うのがやっとだった。
玄月はうん、と唸って完全に炬燵に潜り込んだ。
炬燵の中で玄月は鋭い表情で何かを考えていた。
「楽しそうですね」
言われて男はフードを脱いだ。
「鬼流がこの話を受けて、あの扉を閉じる様を想像していた。元老院のジジイ共の顔を見るのが楽しみだな。俺の中にアレがいるのを知って、俺が誰かを知って……」
「長かったですね。でもとても短くも思えます」
「そうだな。紅柳にももうすぐ会える」
「……そうですね。でも白日様は……」
「複雑だろうな。あれは頭がいい。俺を見てどんな顔をするか、それだけは想像できない」
「……お茶でもいかがですか?」
「ああ。もらおうか」
「はい。今日は茘枝(ライチ)紅茶に玖瑰(メイクイ)を浮かべようと思います」
花か、と呟いて男は再びフードを被り直そうとしてやめた。
茶器の音、湯が注がれる音。それらが室内に響く時間が、なぜか急に愛しく思えたからだった。長く浸っていたいと心からそう思った。
「あの日……お前を見つけていなかったら……」
ふと呟いた言葉に、茶を注ぐ手が止まる。
「後悔、なさってるんですか?」
「いや。ただ……誰かに手を引かれているように思えてね。鬼流が現れた時も思ったが、ここはどこなんだろうな、と。時々分からなくなる。何の為にここはあるのかとか、きっと考えても無駄なことを考えてしまう。もう年だな」
苦笑する顔に影が揺れるのを、焔は気づかないフリをして再び茶を注ぐ。
「全てが分かってしまう世界なんてつまらないじゃないですか」
「知らぬが仏、言わぬが花か」
男は茶に浮かぶ花を見て笑んだ。
「……会えても焔のままでいようと思うんです。空席が埋まってしまった以上、気持を前へ向けようとしている人にわざわざ教える必要はないと思うんです」
「それでいいのか?」
「はい。いずれ別れは来るんです。それなら今のままでも構わないと思うんです」
「今のままで、か。拗ねてるのか?」
「いいえ。あなたと接しているうちに考えが変わったのです。もう子供ではありません。一人で歩けるんですよ?」
「一人でねぇ?まあ、行雲流水。なるままにしかならないのかもしれないな」
「えらく弱気なんですね」
「ここまできたら分からなくなった。先が見えるはずが急に見えなくなった気がしてね」
言いながら茶に口をつけた顔が歪む。
「見た目と違ってあまりいいブレンドじゃないな……」
香りはいいのになぁ、と不思議そうな表情で、眉間に皺を寄せながらも残さず飲もうとする姿に、焔は首を傾げた。
「香り同様、おいしいと思いますが……?」
「味オンチは変わらんな」
「好みですよ、好み。それよりもうすぐ日が落ちますよ?」
言われて窓の外に目をやり、男はフードを深く被って席を立った。
それを見送って焔は軽く溜め息を吐いた。
4.
暮れゆく空に合わせて、公園の街灯が灯る。
その片隅のベンチに心は腰を下ろした。
もう男に答えを出していたが、玄月に話して少し揺らいでいた。どっちでもいいと玄月は言ったが、本当にそう思ってるとは限らない。だから、心はこの公園に来た。あの男が来るかどうかは分からなかったが、なんとなく来るような気がしていた。
案の定、すっかり日が落ちた頃、男は公園に姿を現した。
「昨日は即答したけど、少し迷ってるみたいだね」
会うなり男はそう笑って心の隣に腰を下ろした。
「……話を受けるなら望みを叶えてくれるんですよね?」
「うん。玄月を還すのは無理だけど、それ以外ならなんでも」
「なぜ……?」
「本人が望んでないから。それに、君も本当に心の底からそう望んでいるわけじゃないでしょ?」
否定しようとした心の口が閉じる。それが一番いいことだと思ってるのに、誰かに否定してほしい気持ちが確かにあった。
だから、男の言葉に心が揺らぐ。
「先に話を進めようか。まずは扉を閉じて、本当の扉を開けてくれるかい?」
「本当の扉?」
「そう。開いたままの扉は壊れてる。だから、それは閉じてその奥の本当の扉を開けてほしい。僕をそこから出してくれないかな?」
「あなたを……?」
「僕の真名(まことな)は氷刃夙尤誄(ピンレンスーユウレイ)。氷刃(ひじん)と呼ばれていた。今はあるお方の代役をやっている。元老院でね」
「元老院っ!」
「そろそろその代役にも飽きた。第一僕にこのローブは似合わないと言われてね」
刃は苦笑してローブを脱いだ。
声はとても若く思ったが、そこにはかなり高齢と思われる老人がいた。
前に会った時は心と同じくらいの青年に見えたのに、今は見知らぬ老人の姿で、前と同じ声をしている。
心には訳が分からなかった。
「扉を……開けてくれるかい?」
炬燵(こたつ)から顔を出して、玄月は大きく伸びをした。
出かけてきます、というメモと一緒に炬燵の上には夕食が置かれていた。
それを横目にゆっくりと炬燵から出ると、タイミングよく電話が鳴った。
「はい、鬼流……」
「玄月か?」
「なんだ、狼(ロウ)かよ。仕事の話なら心は出かけて……」
「お前に用がある」
「俺に?」
「ああ。元老院の様子がおかしい。紅老子の腰巾着がいたろ?」
「焔か?」
「そいつが元老院で何かやらかしたようなんだ。今役所の機能は一部停止状態さ。仕事の割り振りもできてない。こんなこと初めてだろ?」
「何かって分からないのか?」
「俺もこれが精一杯なんだよ。ただ、ちらっとだがお前の死神の名が出てたぞ。あと、術師の紅柳の名もな。何か知らないか?」
狼の目的はそれだったのだ。玄月から何か情報を仕入れようと電話してきたのだった。役所の窓口ではバカ丁寧な口調の狼だが、玄月と二人の時はそれが崩れる。
「……この間の件とは違う話か?心の情報を盗んだのは紅柳なんだ。それとは別か?」
「別のようだな。もしかしたら繋がってる話かもしれんが、俺が聞いた限りでは別のようだ。何か隠しているようなんだが、本当に知らないか?」
「知らね。俺は何も聞いてないけど、ちょっと心を探してみる。嫌な予感がする」
「なら、何か分かったら連絡くれ。俺も情報を送るようにする。いつもの方法で構わないか?」
「ああ。頼む」
電話を切って、玄月は家を飛び出していた。
行き先は決まっていた。どうせあの公園だ。カラスの姿に変わって空を切り裂く。公園に近づくにつれ、嫌な予感は強くなった。
それは公園に辿り着いて、人の姿に変わって地上に降り立った瞬間、さらに増した。
「心っ!」
そこには、その場に崩れる心がいた。
5.
その瞬間、まるで自分の体じゃないかのように、勝手に体が動いていた。
意識は朧にある。でも、夢の中にいるかのような少し宙に浮いた感覚だった。
視界も霧がかかっているかのように明瞭を欠いていた。
椅子から立ち上がって刃に背を向ける。腕が前へ伸びる。何かを押す仕草。腕が完全に伸びきると、刃に向き直ってハンドルを回す仕草。右に一、左に三。再び何かを押す仕草。
何の儀式だろうと考えて、心はようやく自分があの扉を開けているのだと気づいた。気づいた瞬間、視界が僅かにクリアになる。
黒い扉があった。でも何の装飾もなかった。装飾の美しいのは最初に押した扉で、これは扉の奥、扉の裏側なのだと気づいた。
それをゆっくりと今押し開けている。
その向こうに誰かがいた。刃と同じ顔の老人がいた。
「紅煌尭漸(ホンファンヤオジャン)……」
口から名が自然と滑る。
「字を二字欠かしてしまったか……」
老人は寂しそうに笑んで、一歩踏み出した。
何かが体をすり抜け、扉が閉じた。
閉じる音を聞いた瞬間、体から力が抜ける。まるで糸を切られた人形のように。
閉じる視界の端で、刃の体から何かが、多分、人が転がり落ちた。老人が刃の体に入って、刃がそこから押し出されたようにも見えた。だが、それがどういうことなのか確かめる前に、心は意識を手放していた。
「心っ!」
倒れた心に玄月が駆け寄る。心の様子を確かめ、どこも怪我をしていないことが分かると、玄月は厳しい表情で老人を見上げた。
「何をした?これはどういうことか説明しろっ」
老人は軽く溜め息を吐いて背後を振り返り、そこに倒れている刃を労うように軽く撫でてから、再び玄月に向き直ると、玄月の背後を指差した。
「ほれ。もう薄れ始めているが、扉があるだろう?わしはずっとあそこに閉じこもっておったのよ。わしの代役をこの男にしてもらっておったのだ。この子に出してもらったので、わしは本来のわしに、この男も元に納まった。それだけの話だな、簡単に言うと。だが、この話はちぃと複雑でなぁ、長くなるしこの子にも全部話さなきゃならん大事な話だからの、魂(たま)が抜けるまで休憩じゃな。わしも久し振りにここの空気を吸うて、ここに慣れるのに少々時間が必要だしの。それより、白日は元気かね?」
玄月は半透明に透け始めた扉を見つめ、ああ、と頷いた。
「あんた、白日の知り合い?」
「うーん、わしと知り合いというより、この男と知り合いだな。ああ、それから紅柳、あれも元気かの?」
「多分な。で、俺はあんたもそいつも誰か知らないんだけど?」
「こりゃ、失礼申したな。わしは二字欠けて紅煌尭漸となったようだの。だが、昔から紅老子と人は呼ぶな」
「紅ッ!」
玄月はげっ、と目を見開いた。
「元老院の長老じゃねぇか。なんでお前が白日と知り合いなんだよ?」
「人の話を聞いておらんのか?わしではなく、この刃と知り合いだとさっき言ったばかりじゃろ。これは氷刃夙尤誄(ピンレンスーユウレイ)、氷刃(ひじん)と呼ばれておる。わしより一字多くなってしまったから、これからはこれにわしの席に着いてもらえたらと思うておるんじゃが……着いてはくれぬだろうな」
苦笑するように笑んで、紅老子は横たわる刃を見つめた。
「氷刃っていやぁ、随分昔に消えたって言われてなかったか?」
「わしがこんなことになったせいで、わしの代役をするために消えたことにしたのだろうなぁ。これからも消えたまま、ここで永遠に生きることになるだろうて。かわいそうなことをしたと思うたが、今はどうかの。これもここから出て行こうと思うておらんような気がしての。わしのせいでここから出られぬものが増えて、それをどう償っていくべきか、もしくはここのシステムを見直すべきなのかまだ迷うておる。いずれ変えねばならぬことはたくさんあるのだろうがな」
刃、紅柳、花流、そして心。
確かにこの件でここから出ることのできなくなったものは多い。でも、なんとなく玄月はホッとしていた。これは悪い結果じゃない。そんな気がしていた。誰も出られなくなって嘆いてはいないからだ。多分、そこに心も含まれている。
だが、出られないことを嘆かなければならない、と思ってしまう自分もいた。嘆かないのはおかしいと。だから素直にこの結果に甘んじることはできない。
「そろそろこれのかけた魂(たま)が抜ける頃かの。あまり強いものじゃなかったようだし、これを起こすか」
よいせっ、と老子はいつのまにか座っていたベンチから立ち上がり、刃の元へ行くと屈み込んで刃の頬を軽く叩いて起こした。
「長い説明をせにゃならんでな、ほれ起きんかい」
老子の言葉に刃は目を覚ますと、軽く頭を押さえてゆっくりと起き上がり、心と玄月を認めて嬉しそうにした。
「なんとかうまくいったようですね。お久し振りです、紅老子」
うむ、と老子は目を細めて頷いた。だが、両者とも何か含むところがあるように玄月の目には映った。
「少し魂を込めすぎましたかねぇ?言葉に魂を乗せるのは久し振りだったもので、加減を誤ったようです」
目を覚まさない心を見、刃は少し困った風に言って、心の額に右手をかざした。何かがそこから抜けるように小さな風が起こり、数秒もしないうちに心の目がゆっくりと開く。
「強引な方法をとった非礼は謝ります。目覚めたばかりのところ恐縮ですが、少し昔話に付き合って頂きます。あまり時間がなさそうなので、ゆっくりできないのです」
そう前置きをすると、刃はその場に腰を下ろした。と、そこに椅子が現れる。そして、玄月と心、老子の背後にも同じ椅子が現れ、茶器の載った円卓を囲む形となった。
「冷めないうちにどうぞ。長い話になりますので」
だが、誰も茶器に手を伸ばさないのを確認して、刃は口を開いた。
「事の始まりは今からおよそ七百年前になります。何年かに一度、落下者が多い年というものがありまして、その年がちょうどそれに当たったようで……とてもたくさん危険区域に落下者が出ました。その際にあの扉の鍵が壊れてしまったのです。鍵を直す術もないままそのまま時が経ち、今から四百年程前、紅老子が誤って扉の中に閉じ込められてしまったのです」
なぜか「誤って」という部分にトゲがあったのを、玄月と心は聞き流したが、紅老子は不服そうだった。
「紅老子はご存知の通り、元老院のトップ、長老の座に着いていらっしゃいます。その方が突然、不慮の事故とはいえその席を空席にされると、元老院だけでなくこの世界の秩序に混乱を招きかねません。そこで、当時扉の開閉を監視する任に就いていた……ああ、鍵が壊れてから元老院の中流階級の人間が交代で監視をすることになっていたんです。その当時の担当が運悪く僕だったんですが、紅老子の不慮の事故に僕一人だけが気づいてしまったために、紅老子の代役をすることになってしまったんですよ。老子は結構術には達者でいらっしゃって、扉の中から僕の中に意識を飛ばすことができましてね、僕の体を貸してさしあげてたんです。当時の僕はまだ元老院に入りたての右も左も分からない紅顔でしたから、紅老子と聞いてそれはもうすんなり騙されてしまったわけです」
刃は雄弁に……というか饒舌になっていた。自分のことを紅顔とまで言っている。玄月はなんとなく嫌な予感を抱きながら、刃の話を聞きつつ老子の様子をちら、と伺った。
老子は小さくなっていたが、表情はかなり不機嫌になっている。
「僕も誰も扉の開閉の仕方なんて分かりませんでしたがね、紅柳がここにやって来た時に、この扉を見たことがあると門を潜る前に言ってたんですよ。扉の開閉の仕方も知ってたんですね、なぜか。それで僕はやっとこの不自由な生活から解放されると喜んだんですが、門を潜った途端、紅柳は忘れてしまったわけですよ。開閉の仕方を全部。一応門を潜る前に聞いてたんですが、どうもうまくいかなくてね、僕は紅柳が思い出すのを待つことにしたんです。恐らく紅柳は誰かが扉から落ちる瞬間を見たことがあるんだと思うんです。それで開閉の仕方のヒントを得た。だけど、ヒントだけでやり方自体はきちんと把握してなかったんでしょう。そうしている間に、あの事件が起きたわけです。紅柳の半身、東輝(トンフイ)という黒豹なのですが、善意から彼を元の世界に戻そうとしたわけです。紅柳は記憶の欠片から扉を開く方法を思い出した。そのつもりだったんです。ですが、思い出したのはヒントだけ。その結果、東輝は消えてしまったのです。扉の存在について、元老院はかなり神経質です。紅柳にしばらく半身をつけなかったのもそのためです。東輝が消える直前、紅柳は長期休暇を取り、何度も現世に行っていました。現世で扉を探していたんです。でも、見つからなかったようです。そう簡単に何度も開くものではありません。あれは数十年、数百年という長い間隔で世界のどこかで開くのです。いつどこで開くのかも分かりません。ですから、紅柳は探すことをやめ、強引に扉の開閉を行なおうとしたんですね。半身をつけなかったことは逆に紅柳にとってもよかったのかもしれません。半身が消えてから頑なに人との接触を避けていた傾向があったようですし。僕はそれから憂鬱な日々を過ごしていましたが、そこに君が現れた。正直、天の助けと思いましたね。君は門を越えてもはっきりと覚えていましたし。ですが、それは夢の中に限定され、夢から覚めると忘れてしまうという、僕としてはとても残念な結果だったんですねぇ。自分の不運を嘆きましたね」
「これはどうも毒が強くてな……」
ぼそり、と老子は二人に呟いた。
それは刃にも聞こえたはずだが、聞こえぬフリをしてさらに続ける。
「僕はこの機会を逃しては永遠にこの地獄から出られないと思いまして、紅柳を利用してみたわけです。君の情報をあらかじめ紅柳にそれとなく伝わるように仕向けてみると、紅柳は単純ですからねぇ、あれで。僕の望むように動いてくれて大変助かりました。僕の友人に君達もご存知の白日という猫がいましてね、あれは強かなんですよ。利用できそうな人間は大抵お友達に持ってましてねぇ。紅柳とも面識があったので、白日にもちょこっと協力して頂きました。白日は僕のこの不運な状況を報せておいたのでね。付き合いも長いんですよ。白日が落ちて来た頃に僕もちょうどここに来たので、まあ同期っていうんですか?そんなものなんですよ。知り合ったのは僕が元老院に入る少し前のことなのですがねぇ。ああ、話が逸れましたね。まあ、そんなこんなで君を利用して僕は僕に戻れて、この人ともお別れできると。そういうわけです。助かりました。なんとお礼を申していいか……」
なんだか途中から大きく話を要約されて、おまけに芝居臭い台詞を吐いた刃は、一つ咳を吐いて笑みを作った。
「さて、と。そろそろ時間かなぁ。元老院が騒ぎ始める頃でしょう。僕の代わりに君達に扉の監視をして頂く手続きを早く済ませないとね。このままじゃ他の連中が反論して話が頓挫する。なので、元老院へ向かいましょうか」
半ば強引に、二人は流されるように元老院へと促された。
これで本当にいいのか?という疑問を口にする間もなく、すっかり準備の整った元老院の一室でその手続きは行なわれた。
壊れた鍵を受け取るだけの手続き。
それが扉の開閉を監視する任を受けた者の証だった。
小さな銀色の鍵を受け取って、心は玄月を振り返った。これで心は鬼籍から名が消え、玄月とほぼ同じ身の上となったのだ。だが、その実感はまだない。ただ、心はなんとなく安堵していた。
「紅老子が戻られたと聞いて参ったが……これはどういうことかご説明頂けるか?」
ふいに部屋の扉が静かに開き、初老の男が背後に複数の男を連れて入って来た。
「我々の前にいた紅老子の姿をした者のこと、その経緯、そしてこの現状。全て説明して頂こうか。いつからここは独裁者の支配する場所となったのか、ぜひとも聞かせて頂きたい」
「独裁者?改革と言って頂きたいですね。時代は常に流れています。行雲流水がここの理念ならば、時代の流れに沿うのが妥当でしょう。流れに沿って元老院制度の見直しを図りたいと考えております」
刃の言葉に男は顔を曇らせたが、刃の背後の紅老子の表情を伺って開きかけた口を閉ざした。
「納得いかぬことは重々理解しておる。だがな、わしの時代は終わったことだけは了承してもらいたい。わしは一字欠けた。その席はわしの代わりを務めあげてくれたこの氷刃に譲ろうと思う。これからは刃(レン)老子が長老を務める。それで良いな」
真っ直ぐに視線を向けられ、刃は頷かざるをえなかった。それはその場にいた初老の男や彼の従える男達も同じだった。
「多少口は過ぎるが、これでもなかなかに優秀な男だ。それから、新しく彼の任を継ぐのがこの鬼流だ。鬼籍からは既に外した。鍵も手にしている」
「用意がよろしいようですな。あなたのやり方は反感しか買わぬ。それで皆が納得するとお思いか?」
「彼にしかできぬことだ。紅柳はしばらく投獄して監視をつける。半身は新しい術師なり何かを探す。花流は半身と共に門番。それで全ては収まるべき場所に収まる。ただ……焔はどうするかの?」
ちら、と老子は刃を見たが、刃は視線を逸らし、
「焔は関係ないでしょう。老子の秘書官のようなものです。あれはあのまま私の側に置いておくつもりです」
そう毅然と言い放ったが、老子はそうか、と困った風に呟いた。
「行雲流水。それがここの理で、お前は今からそれを実行しようと宣言するのに、そこだけは歪みを作るのか?」
「歪み?どういうことだ?」
初老の男が刃を見やる。刃は決まり悪そうに軽く俯いた。
「本人がそれを望んでいるのです。それを無視することは私にはできません」
「できる、できないでも気持ちの問題でもない。ここは全てを流れるままにする場所なのだ。望む望まないに限らず、あるべき場所に送るのが務めなんじゃよ。それはわしらも同じだ」
駄々をこねる子供を諭すように、老子はそう穏やかに言った。
「焔は東輝に戻すべきだな。投獄するのはかわいそうだが、それが決まりだ。それだけの罪を彼らは犯したのだ」
老子の言葉に周囲はざわめく。
「東輝?東輝と言われたか。一体何が起こっている?説明を……」
「わしも……扉の向こう側へ戻りたいと願う者の一人だった」
「だった?どういうことか?」
「今はそういう気持ちはない。だが、そのせいでたくさんの歪みを作ってしまった。紅柳のことも、この刃のことも、花流も鬼流も……全てわしが原因だ。わしのその気持ちがきっかけで、わしは扉に永く閉じ込められていた。鬼流と刃のお陰でやっと出られたがな。わしはどうしても扉を開きたかった。誰もが一度は魅了される。あれは絶対に開かぬ扉だと知りながら、それでも可能性を探してしまうんだ。鍵が壊れている今、その夢想は果てしない。だが、開けてはいけないものも存在する。わしはこれからその歪みを修正することで罪を償うつもりだ。わしの席はこの氷刃に埋めてもらう。それで勘弁してもらえんか?」
「煙に撒くおつもりか?」
「余計な詮索は怪我のもとじゃよ」
老子は穏やかな笑みを見せたが、その裏に鋭い牙が隠れていることは誰の目にも明白だった。
6.
「お久し振りです」
牢獄の扉を開けて、驚いた表情の紅柳を前に焔はそう会釈をした。
「東……輝?」
「はい。先程まで焔として氷刃の秘書官をさせて頂いておりました。いろいろ事情があって東輝に戻れずにいましたが、この度ようやく戻ることができました。今さらあなたの前に姿を晒すことに迷いはありましたが、東輝である以上、戻らざるをえませんでしたので……」
「生きていたのか……」
「はい。あるお方に……名前を出すことはできませんが、その方に助けて頂いて秘書官を世話して頂きました。名も全てその方に頂いたものです」
「……すまなかった。ずっと詫びていたがそれで許されることではないと……」
「詫びる?なぜです?あなたは私のことを常に考えて下さっていた。その気持ちに結果は関係ありません。少なくとも当事者の私はそう思っているのですから、どうか詫びないで下さい。私の方こそ今まで黙ってあなたの元を離れていたことを詫びねばなりません」
深々と頭を下げる焔、東輝を紅柳は複雑な気持ちで見つめた。
「頭を上げろ。俺はとんだ道化だ。結果は関係ないとお前は言うが、俺の無知でお前に怪我を負わせたことは事実だ。その上、そこから結局何も学んでいない。何も得てはいない。詫びて済むことじゃない。それを許せるのか?」
「ええ。半身にとって、それが一番幸せなことなんです。想ってくれる人がいることは、とても大切なことなんですよ。ですから、ここに投獄されても恨んだりはしません。でもまあ、あなたの気持ちが済むならここにいる間、身の回りの世話くらいさせてあげますけど?」
両腕を組んで意地悪く笑む東輝に、紅柳は苦笑した。
「そうだった。お前は昔からそういう言い方しかできんヤツだったな」
「寂しいか?」
急に問われて氷刃はは?と不機嫌に老子を振り返った。
「焔はお前の気に入りだったろう?」
「別に。それより早くご自分の小屋にお戻り下さい。俺はあなたの押し付けた任に着任する為にいろいろ準備があるんです」
「小屋とは失礼な。確かにお前の部屋より小さい上、重罪で軟禁生活になるがな。だが、お前だって忙しいわけではなかろう?準備なんて女官がやってくれよるわ」
「口実に決まっているでしょう。オブラードに包んで遠回しに『邪魔』だと言っているのが分かりませんか?」
「字が増えると嫌味も増えるのかねぇ?」
「お暇でしたら会議に顔を出されてはいかがです?退屈せずに済みますよ」
「あんなものに顔を出したら、吊るされるわ。皆わしが字が欠けたことを喜んどるからのう。今までの恨みの的にされると分かって、誰があんなものに出るか」
「恨まれてると自覚がおありだったんですね。それだけでも進歩ですよ、あの頃に比べたらね」
氷刃の言葉に老子は詰まった。
「……永く扉の中で考えた。わしも愚かだったが、お前もそろそろ素直になってはどうかね?もうわしの面を被る必要はない。お前はお前に戻ればいい。焔のようにな」
「……そう簡単にはいきませんよ。俺の場所はどこにもない。あなたが用意したあなたの席に座り続ける限り、俺は俺に戻れない。戻ったところでどう生きればいいかも分からない」
「お前の籍は戻しておいたよ。わしにできることは何でもするさ。それで償いになるかどうかは分からんがね。ところで、鬼流心の願いは何だったんだね?」
結局、それが知りたかったのか、と氷刃は苦笑した。笑うとどこかが軽くなった。
「現状維持、でしょうかね。簡単に言うと。今の家に住み続けたいと。それと、記憶の完全消去でした。ですが、扉に関することを全て臥龍院に提出してからになりますので、半年は記憶を保持したままになります。意外に難しくて時間のかかることらしいので」
「そうか……ここを本当に選んでしまったんだな」
「それがせめてもの救いですね。自分の意思でここに残って任に就いてくれるようですから」
「そうだなぁ。ま、事後処理が大変じゃが、よろしく頼むわ。やっとあの小言ジジイ共から解放されるわ」
しまった、と氷刃は思ったが、遅かった。やはり老子の方がまだ一枚上手だ。
勝ち誇った笑い声が遠ざかるのを聞きながら、片付けていた書類を見渡す。
それは全て今回の報告書や始末書、請求書などの山だった。
終.
青い空がどこまでも澄み渡って、その中を悠々と雲が風に流されていた。
その下で大きく伸びをして、心は干し終わった洗濯物を眺めた。
それはとても不思議な気持ちだった。
死んでいるのに洗濯をして、ご飯を食べて、呼吸もしている。
死んでいるのに全てが現実だった。
百年後に生まれ変われるはずだったが、ここで永遠に『生きる』ことになったことを悲観はしない。生きていた時のことを少し思い出した今もそれは変わらない。
ずっと同じ場所にいる。
それは心地の良い安心感があった。
終わりは全ての始まりであり、やはり終わりでもある。
老子はそう目を細めていた。その言葉の意味を説明してはくれなかったが、この青い空を見上げていると、なんとなくその意味を感覚的に理解できそうだった。
終わりは誰の上にも訪れ、始まりもまた誰の上にも訪れる。どちらも必然的に、また偶然に。
矛盾することなく相反するものが混在する。
扉の監視を始めて三ヶ月。
まだこれといって変化はないが、あの扉が引き起こした歪みはそれでも徐々に修復されようとしている。
紅柳と東輝はしばらくは元老院の地下の牢獄で、罪を償いながら雑用をしているらしい。
小空は別の術師の半身になった。
蓮と白日は門番の仕事に就いた。
そして、心は扉の監視の任に玄月と共に就いた。その際に元老院の中に移り住むよう言われたが、住み慣れた場所を選んだ。元老院の中に入る為に字を一つ増やさねばならないことが、なんとなく心は受け入れられなかった。それは、珍しいことだったようだが、五年間このまま問題を起こさなければ、その先もこの家で暮らすことを許された。
「心ッ」
部屋の中から玄月が叫ぶ。その先に続く言葉を心は知っている。
「鍋の中だよ。器に盛るくらいやってよね」
洗濯籠を片手に抱えて、心はそう答えた。
いつか終わりが来るのだとしても、それは今じゃない。不安なことや苦しいことがあっても、終わりじゃない。まだ始めることができる。
「……鍋、火ぃ吹いてたけど……?」
部屋に上がり込むと、少し煙が目にしみた。
軽く咳き込む玄月に、心は思わずしまった、と声を上げていた。
誰かが側にいる。
それは限りなく心強いことで、温かいことで。
そして、幸せなことだと知った。
(了)