【心&クロシリーズ】
【風の標】
序.
風が雲を押し流し、その行方を見つめる。
形なきものの行方など知る由もないが、それでもそれを追おうと走ってみる。
そしてふと気づく。
何を追っているのかと。
後から吹き抜けていくものもあることを知って、何を追っているのかと。
追っているものはとうに遠くへ消えてしまったかもしれぬのに。
そして立ち止まる。
どこへ向かえばいいのか、分からなくなってしまったから。
風向きが変わり、やがて止み、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
どこへ向かっていたのかも、どこへ向かいたかったのかも。
空を見上げても、そこに雲はない。
せめて雲を追おうと思ったが、それも叶わぬと知ってただただ立ち尽くす。
ただそれしかできぬと思い知って。
1.
暗い空を見上げると、雲がゆっくりと流れ、細い猫の鉤爪のような月が弱々しく光を落としていた。
ふ、と紅柳は笑みを零す。
それにつられてハッ、と短く蓮が笑った。
白日はただ複雑な表情で立ち尽くしていた。
危険区域の結界は完全には破れなかった。
ただ亀裂が入っただけだった。
失敗したのだ。
「さて、と。どうするかな?元老院は気づいた。わしらが犯人だとすぐにバレるだろうし、どこにも逃げ場はない。橋を渡っても隠れる場所などない。それは構わんが、無駄に咎人になるつもりはない。何か警鐘を鳴らしてからでないとな」
蓮の言葉に紅柳も頷いた。
「お前の半身はどうなったんだ?」
唐突にそう問われ、紅柳は一瞬目を瞬いたが、死んだよ、と即答した。
「俺は未熟で若すぎた。東輝(トンフイ)は綺麗な毛並みをした黒豹だったが、最期はそれとは分からぬほどに変わり果てていた。門を無理矢理越えさせたのが間違いだった」
「門?」
「元老院が隠しているのは半身を元の世界へ還す門だ」
紅柳の言葉の上に白日のやめて、と叫ぶ声が重なったが、それで蓮の耳を塞ぐことはできなかった。
「知ってたのか……?」
白日を振り返った蓮の顔は困惑していた。白日はただ黙ってその視線から逃れるように俯いた。
「確かに危険区域に落下者が多いと聞く。おまけに入るのには厳しい制限がある。門を越えるにはどうすればいい?」
「蓮?」
「還すなら今しかない。元老院がここに辿り着く前に」
「無理だ。俺も還す術は知らない。東輝の時は失敗した。今もその自信はない。それに、もう遅い」
紅柳が振り返ると、そこには数人の男が立っていた。皆漆黒のローブに似たものをまとっている。その胸には同じシルバーの小さなバッヂが煌めいていた。
それは元老院直属の人間であることを示していた。
「元老院の封を破るとどうなるかご存知でしょう?何故そうされるのか?」
長い黒髪の華奢な青年がそう問うた。
「なぜ門を隠す?」
紅柳が構わず睨みつける。
「門?それは過去の遺物にすぎません。今は危険物に指定されています。それはあなたがよくご存知だとお聞きしていますが?」
「きちんとした鍵があれば危険なものじゃない。その存在すらも隠す必要がどこにある?」
「鍵などとうに失われています。我々はそれを再現することができないので、門を見つける度にこうして封鎖しております。時折、向こう側からだけ開くことがありますので」
「封鎖?それは今夜が初めてだろう?今まで危険区域を封鎖したことはなかったはずだ」
「同時期に記憶を宿すものが二人も存在した例は過去にありませんでしたので。記憶を宿したものがここに在ると、よく門が開いて困ります。先程元老院の評議会で封鎖が決定されました。そして、あなた方の処分も……ご同行願えますか?」
「断る」
「それなら強制的に連行という形をとらざるをえません。そういうやり方は好ましいとは言えませんね。ご同行願えますか?」
その言葉に紅柳は舌打ちをした。言葉に魂(たま)が込もっていたからだ。そうなるとこちらの意思とは無関係に相手の言葉に乗せられてしまう。
頷かざるをえない。
「よかった。子供のように駄々をこねない方が賢明ですからね」
青年はにっこりと笑んで、危険区域の結界を張りなおした。
2.
「追……放……?」
花流蓮の元を訪れた心は、蓮の部屋の前に貼られた紙を見、その文字に立ち尽くした。
よく理解できなかった。
「『……現在元老院にて審議中』ってどういうこと?」
隣で睨みつけるように紙を見つめていた玄月を振り返る。
「何したか知らねぇけど、元老院が出張って来るんだから、相当やらかしたみたいだな。追放ってのは門番だ。門の外の仕事をやらされるってことだよ。門の外は門の中以上に自由がない。一定の区域を出れば魂が霧散してしまって二度と再生が利かないって話だ」
「でも審議中ならそうと決まったわけじゃないんだろ?」
「決定だよ。審議の内容はいつから実行するか、それに付加するもんはないかっての審議で、これ以上罰が軽くなるってことはない」
「そんな……」
「紅柳という方の家にも同じものがありましたが、半身の小空という方は不問とありましたねぇ」
俯く心の背後から、ふいによく通る声がし、心と玄月がほぼ同時に振り向くと、そこには紙を見据える男性が立っていた。
視線が合うと、男性は両腕を軽く組んでにこりと笑んだ。
「どうやら危険区域の封印を解こうとしたようですよ。失敗に終わったようですがね。元老院の封を破るなど禁忌ですからねぇ。僕、元老院に知り合いがいましてね、それでちょこっと人より耳が早いんですよ。処分は花流さんは門番でしょうね。紅柳さんはどうかなぁ?多分、禁固刑とかかな?前科があるからねぇ。ちょっといろいろ付加されそうですねぇ。困りましたねぇ」
ゆったりとした口調ではあったが、一気に一方的に話され、ようやくそこで玄月に口を開く機会が巡って来た。
「あんた誰?」
「僕?僕はただの通りすがり。野次馬みたいなもんです」
「ただの通りすがりが何で困るんだよ?」
「困るのは僕じゃなくて君。だって、用があってここに来たんでしょ?多分当分会えないと思いますよ。審議期間中は元老院に拘束されますからねぇ。おまけに審議が終わってすぐ門の外ですよ。門番と会うことなんて中の人間には全くといっていいほど、そんな機会ないですからねぇ。門番が相手にするのは船頭と門を潜ってない魂くらいのものですよ。ご存知でしょう?」
「ああ。でも、会う機会は皆無じゃない。終了直後の一瞬と門の入り口だ。外に出なければ会話くらいならできるはずだ」
「死神の花流さんに、ではなくて、花流さん本人、もしくは半身の白日さんにお話があるんですね」
「仕事じゃなくてプライベートな話は禁忌だと言いたいのか?」
「プライベートはここにもありますよ。仕事だけと言ったってある程度の自由がなければ窒息してしまいます。おまけに今時そんなこと、いちいち役所に届けたって、誰も相手にしてくれませんよ。そこまで皆仕事熱心じゃないでしょう?」
それもそうだ、と玄月は笑ったが、目は笑っていなかった。
それはこの男性も同じだった。何か隠している。心にもそれと分かるほど、露骨にこの男性は怪しかった。
そして、心はどこかでこの男性と会った気がしていた。それもごく最近。
それを思い出そうとすると、なぜか思い出してはいけない気がしてならなかった。
3.
「……帰りたいか?」
質素で小さな部屋。
そこが審議中の仮の住まいとして与えられた、元老院の中の一室だった。
必要最低限のものがあるだけの、無機質で冷たい部屋で、蓮と白日はずっと押し黙ったまま、ただ時計の秒針だけがやけに大きく室内に反響していた。
窓辺に置いた古い椅子に腰を下ろし、蓮はふと窓の外に目をやったまま呟いた。
白日も窓外に目をやる。
能天気ってこんな天気のことを言うのかしらね、と思いながら見つめた空は、どこまでも高く遠く見えた。
軽く目を閉じて思い出す。
ここに堕ちてもう随分と長い月日が流れた。
堕ちる前の場所の記憶は薄れてしまっていた。ただ、思い出せるのは五感の記憶。肌を滑る風の感触、その風に乗って漂う干草の匂い、そしてどこまでも広がる高い高い空。
「もう……忘れてしまいました。帰る場所がどこか分からないのに、帰ることができますか?」
ゆっくりと目を開けて、白日は蓮の横顔を見つめた。
「だが、お前の場所はここではなかろう?」
「確かに、ここに来たばかりの頃は、風さえもが私を追い越して家路を急ぐように思えたこともありました。なぜ私はここにいるのだろうと考えることもしょっちゅうでした。でも、今の私にはここでの記憶しかありません。思い出のある場所が故郷でしょう?気持ちのある場所が故郷でしょう?だから、帰りたいとは思いません。帰ったところで今さら私のいる場所などないでしょうし」
「……そうか」
そこで会話は途絶えた。
黒い扉。
その装飾は細部に至るまで実にきめ細かく、美しいの一言に尽きた。
軽く押すと、重厚に見えた扉は簡単に開いた。
光が差し込む。眩しさに目を細める。
風が吹き込み、しばらくすると落ち着いた。
そして再び目を開いた時には、暗闇の中にいた。
振り返ると扉がある。
闇に同化しているはずなのに、扉だけはなぜかはっきりとよく見えた。
軽く押す。
その手にさらに力を加える。
だが、どんなに力いっぱい押しても扉はぴくりとも動かなかった。
鍵穴を探すが見当たらない。
だが、よく目を凝らすと、鍵穴を塞いであるのが分かった。何かが押し込んである。
「知ってる。これ、知ってる。
鍵で開けるんじゃないんだよ。
鍵がなくても開くんだよ」
誰かの声がした。子供のもののようだ。
「迷いでもしましたか?」
どこかで聞いた声がした。
「圭輔」
どこかで聞いた声が。
「心ッ!」
そこで目を覚ます。
瞬くと玄月が心配そうに覗き込んでいる。その背後に空が見えた。
道端で倒れたようだ。後頭部が痛む。
「大丈夫か?」
差し出された手を借りて起き上がる。
「鍵が……」
「鍵?」
玄月は怪訝そうに心を見上げた。
頷いて心は繋いだままの手をゆっくりと離した。
「帰りたい?」
どこに?と訊こうとして玄月はやめた。心から真っ直ぐにその問いが向けられる時が来るなんて、全く思いもしなかった。だから、少し間が空いた。
「……帰る方法があるんだ」
その時の心の目を、玄月は多分忘れないと思った。
4.
「カラスは何て答えましたか?」
小さな公園。
街灯が淡く灯るその下、古いベンチに男が座っていた。
「花流さんの部屋の前で会いましたね。でも、その前にもどこかで会いませんでしたか?」
心はなんとなく、玄月には内緒でここに足が向いた。
多分、ここで会話をしたような気がしたからだ。
「扉を思い出してくれたようだね。でも、まだ思い出さなければならないことがたくさんあるんですよ」
「あの扉は……?」
「秘密の扉だから言えません。でも、自分で思い出せばいい。君はあの扉について知ってるはずなんです」
「なぜ僕が知ってると?」
「ここであの扉を知ってるのは、元老院の人間以外では君と紅柳だけです。ここで生前の記憶を保持できるのは、あの扉を知ってる者だけなんですよ。ただ、記憶を全てこちらに残すことはできませんが、それでもこちらで記憶を残すことができる人間は稀なんですよ」
「僕は何も覚えていません」
「自分の名前を知っていたでしょう?」
「それはあなたに会ってから……」
「それは違います。鬼流心という名を与えられた時に違和感があったでしょう。それに夢で何度も今の家ではない、生前の家に帰っていませんでしたか?」
その言葉で心の脳裏にマンションの一室が蘇る。
そして、誰かが自分を呼ぶ声がした。
「君のカラスは帰らないと答えた。でも、君は?あの扉は君も通れるんですよ」
「なぜあなたはそんなに僕のことをご存知なんですか?」
「言ったでしょう。僕はサトリなんです」
にこり、笑った顔に何かが重なる。
あと少しで何かを思い出しそうなのに、思い出そうとすると途端にかき消えてしまう。
「……花流は門番、白日は不問、紅柳は禁固、小空は不問。先程元老院の評議会はそう決定を下しました。ただし、紅柳は前科があるので、いずれ処分されるでしょうね」
その静かな声に心は俯きかけた顔を上げた。
「処分……?」
「消えてなくなる、ということです。同じ時に記憶を宿す者が二人もいたことは今までにない。これで、君一人になるわけです。そうすれば、あの扉が不安定になることもない」
「そんな……そんなことのために?」
「いい口実となったわけです。あの扉は君のような人間に反応するようです。生と死。それを二分しなければならない場所で、生の欠片を持ち込まれると簡単に揺らいでしまう。ここはそれほどまでに不安定な場所なんですよ。ここを守る方法は、それをいかに迅速に取り除くかにかかっています。君もまた、排除されるべき対象だったわけです」
「でもそれは……」
「故意でなくとも、持って生まれた性質でどうしようもないことでも、秩序を守らなければならないなら、それは何の理由にもなりません。君の半身もここに落ちたのは自分の意思じゃなくとも、落ちてしまった以上、その運命に身を任せるしかないのです。でも、あの扉はそんな理不尽から解放してくれるのだという夢物語があるんです。ただ、誰も扉の開け方を知らない。見たことがある人間は時折いるのですが、開け方を皆忘れてしまうのだと言います。紅柳も忘れてしまった。でも、扉は見つけられる。自己流の開け方で、結局彼の半身、東輝(トンフイ)という黒豹でしたが、扉を越えた瞬間……」
そこで男は僅かに言いよどみ、変わり果てた姿になってしまったそうです、と曖昧に結んだ。
「全てには限りがあります。どんなに広大に思えるものでも、果てはあるんです。僕達が得られるものも、できることも。それはとても微小なものです。ですから、僕達は選ばなければならない。何を得て、何を切り捨てるか。ただその繰り返しです。ですが、その標となるものは存在しません。運命だとかよく言いますが、そんなものはない。それは標とはなりえません。風の行き先など誰にも分からない。見えないものの行く末など、考えるだけ無駄です」
何が言いたいのか心には分からなかったが、男がにこりと空を仰いだのを見、ああ、と納得した。
扉の場所。
扉の開け方。
生きていた時の自分。
見えないものは、見ようとするから見えない。
見るのじゃなくて……
「ありがとうございます。お陰で見えた気がします」
そう言って軽く頭を下げた心の表情は、どこか吹っ切れた清々しいものがあった。
「いい顔だ。それなら君はきっといい選択をするだろうな」
微妙に口調が変わった。
男は立ち上がると、側にたたんで置いていたコートを羽織り、がんばれよ、と破顔して去って行った。
男が公園を出て行くと、途端に肌寒くなる。
風が冷たかった。
先程まで春のように暖かだったのに。
心は不思議に思いながらも、意を決した強い足取りで家路を辿った。
終.
「風に道を尋ねても応(いら)えてはくれぬ、か」
椅子に深く腰を沈め、男はフードの中から天井を仰いで目を瞑る。
「風に道を尋ねても応えてはくれぬ。風はどこより吹きて、何処へと流れてゆくのか、わしらには分からぬことだからの。今追い越して行った風を追おうとしても、目に見えぬものを追うことなど無理な話じゃないか。風向きが変わって、向かって来る風は、何処へと吹き抜けて行った風とは限らぬ。わしらにできるのは、風を感じることじゃよ。目に見えぬものは肌で感じ、感覚で道を見極めることじゃな。風が運ぶ匂いや温度で、昔の人は天気を判じたりもしておった。見ようとしてはいかん。人にはな、目以外にも感じる場所は無数にある。目だけに頼っていては、道を踏み誤ることになるぞ」
どこまでも高い空の下、どこまでも澄み渡る空の下。
柔らかに笑む顔が、優しい瞳がこちらに向けられていて、それをずっと信じようと決意し、それまで必死に抱えてきたものと決別した日のことを思い出していた。
「焔(エン)」
ふいに呼ばれ、茶器を片付けていた青年はその手を止めて男を振り返った。
「俺は俺に戻ろうと思う」
天井を見上げたまま、男は唐突に呟くように言った。
「そうですか」
あっさりとした答えに男は目を開け、青年に視線をやった。
「そうですかって……いいのか?」
「いいも何も、そうお決めになったのならそれに従います。それにいい機会じゃないですか?そのフード、前から似合わないと思ってましたし」
「そんなに似合わないか?」
「ええ。とても。やっぱりそれはあの方が一番よくお似合いでいらっしゃる。それにどのみち、扉が開けばあの方は戻られるんでしょう?」
「……ああ」
頷いて男は部屋の隅に置かれた姿見の前に立った。
「確かにまだ俺にはこんなジジ臭いフードは似合わないな」
真顔でそう言った男に、青年は軽く溜め息を吐き、そうですね、と棒読みで返した。