【心&クロシリーズ- 外伝 -】

【花の色】

序.

 大木はしなやかな枝に満開の花を咲き誇らせていた。
 その下に女が一人、立っている。
「憐れな女よ…」
 男がそう呟くと、女は笑った。
「花は美しいかえ?」
 男は満開の花を見上げる。
 見事な花が咲き乱れている。
 美しい、と思ったが、男は黙っていた。
「木としての生を牢獄だと思ってるのかい?」 
 男は黙ったままであるが、女は一人で話し続ける。
「人になれたんだ。憐れと思うなかれ、だよ。美しい、それだけであたしは生きる。花は散るけれど、また咲きましょう。花は枯れるけれど、また咲きましょう。散る姿も枯れた姿もまた美しいと言わせましょう。それが牢獄かえ?咲けるだけ咲く、それが花ってもんさぁ」
 女はふっ、と掠めるように笑んで消えた。
 男はしばらくの間、そこで花を見上げていた。

1.川

 緩やかな流れの中、小さな舟が一艘、音もなく川を下っているのか上っているのか、ゆらゆらと揺れている。
 舟には三つの影。
 三十代半ばと思われる男と黒い猿、そして白い着物を着た老女。
「大きな川だねぇ」
 老女は舟の真ん中に身を置き、不安そうにちら、と川面を見る。
 男は舵を取りながら、カカカッと乾いた笑いを響かせた。
 辺りは霧に包まれ、川岸どころか行く手さえ見えぬ状態である。
「わしが舵を取ってるんだ。落ちやしない。この仕事を何百年とやってるがな、落ちた奴なんかいねぇし、この川がわしの舟をひっくり返すなんざしやしないんでね。安心してお嬢さんはただそこですましてりゃあいい」 
 男はそう言って楽しそうに笑った。
 人の良さそうな顔が老女に向けられ、その顔に老女も僅かに笑む。
 舟の前に男、真ん中に老女、そして後尾に黒い猿がだらしなく座して空を仰いでいる。
「…この川の下は此岸で、落ちたら生き返るって聞いたことが…」
 ぽつり、と老女が漏らした言葉に、黒い猿が笑った。
 反射的に老女は猿を振り返る。
「すみませんねぇ。下品な猿でして。こりゃ、躾を厳しくせんといかんですなぁ」
 男がすぐさま取り繕うように笑み、猿をたしなめるように一つ咳払いして前に向き直る。
 あまりに緩やかで、霧のせいで周囲が見えない為、舟が同じ所で揺れているようにしか感じない。進んでいるのか、止まっているのか。
 老女はただ目の前に立つ男の背を見つめていた。
「花の色は移りにけりないたづらに…っての知ってますかな?」
 ふいに男は前を向いたまま老女に問うた。
 老女は小町でしょう?と訝し気に男の背を見上げる。
 ええ、そうです、そうです、と男は嬉しそうに頷く。
「あれは散りゆく花に重ねて、老いてく我が身を嘆いた歌ですな。見事な歌ですわ」
 老女は俯く。男の意図するところは分からぬが、どこか馬鹿にされた気がしたのだ。
「門まではまだまだある。少し不思議な話でもしやしょう。門の向こうにも花はありますがね、これがどうにも不思議な花で、美しい花をつけるんだが、気に入った者がその花の木を誉めにゃあ咲かないんですわ。難しい花でねぇ」
 男はそこでちら、と老女の肩越しに猿を見やる。猿は小さく欠伸をした。

2.物語

「美しい花を咲かせる木はすらりとした背の高い木でねぇ、人三人分くらいはありましょう。背は高いが枝が垂れてて、わしでも手を伸ばせば簡単に枝に手をかけられる。だが、そう簡単には触れないんですわ。あれは気に入った者にしか手を触れさせない、神聖な木らしいです」
 老女はそこで神聖という言葉に違和感があった。それは神聖というのとは違って聞こえたのだ。
「ある時ね、その木の下に男が一人立った。男は美しい木だ、と呟いた。すると、木に花が咲いた。一つだけな。男は美しい花だ、と誉めた。すると、花は満開に咲いた。だが、男は何も言わず、その場を去ろうとした。すると、花は散った。それを見た男は美しい、と涙を流した。木は葉も全て落とした。男は枯れたか、と呟いて去った。すると、またしばらく経ったある日、別の男が木の下に立った。枯れた木を見て男はせっせと世話をし始めた。花を咲かせなさい、と我が子のように献身的に世話をし始めると、木はすぐにそれに応えて葉を茂らせ、花を満開に咲かせた。男は汗を拭い、咲き誇る花の下、涙を流して死んだ。すると花はまた枯れた。また別の日に、別の男が来た。木は花を一つだけ咲かせた。男はその花が人間の女だったらなぁ、と呟いた。すると木はめりめりと音を立てて倒れた。二度と花を咲かすこともなく、土に還ったらしい」
 男はそこで沈黙した。
「話はそれで終わり?」
 老女が訊くと、ああ、終わりだ、と男は静かに言った。
「木は木。人間は人間。その境界は越えられねぇですし、それ以上にも以下にもなれねぇんですわ。この舟にも運べる量ってのがある。それ以上を乗せれば、この舟は沈んじまう。過ぎた願いは身を滅ぼすってよく言うがなぁ。それがここでの理さぁ」
 理、と老女は小さく呟いた。
「でも、過ぎたことは滅ぼすが、不足分は請求できるんだぜ」
 ふいに背後からした声に老女はびくり、と振り返る。
 先程まで黒い猿がいた場所に、青年が一人、頭の後ろで腕を組んで座っていた。
「これっ!行儀の悪い。お前は体重が重いんだから、大人しくしとけ、と言っただろうっ!」
 男が厳しい口調で叫ぶと、もうすぐ着くからいいだろ、と青年は大きく伸びをした。
「すみませんねぇ」
 男は老女に向かってほとほと困ったというように苦笑し、詫びた。
 老女はただ戸惑っている。
「猿、は?」
 老女が問うと、ああ、と男は笑む。
「コレは私の『あしすたんと』で、人間じゃあないんですわ」
 笑う男に青年が、無理して横文字使うなよ、とうんざりした表情をする。それを男は憮然と睨んだが、すぐに老女に取り繕うように笑む。
「ほら、門が見えて来ましたよ」
 男が前方を指差す。
 霧が薄らぎ、そびえ立つ古めかしいながらも風格のある門が姿を現し、その輪郭は次第にはっきりとして来た。
 ふと、老女はそこへ行ってはいけないような不安に襲われた。
 なんだかとても急き立てられるように、老女は背後を見やり、そして川面を見た。
 目を凝らすと、澄んだ川面に透けて川底が見える。
 否。
 川底ではない。
「身を乗り出さないでくださっ」
 その先にあるのは…
「ああ、あれは私のっ」
 老女が川底を覗き込もうとした瞬間、ぐらり、と舟が揺れ、あっ、と叫ぶ間もなく、老女は川に落ちた。

3.川の下

「おばあちゃんっ」
 心配そうに覗き込む顔。
 目を二、三度瞬く。
「あら、どうしたかしらね」
 掠れた声で問うと、誰も何も答えずにただよかった、と涙を流した。


「小野ハルはあともう七年生きるって報告しといてくれ」
 男は青年に言うと、青年ははいはい、と頭をかくと、その姿が透け始め、すぐに消えて見えなくなった。
「花の色はうつりにけりな、か…」 
 男は一人、舟の中で腰を下ろし、手帳のようなものを懐から取り出した。
「皆いずれは老いていくがな、そう悲観することはないさ。花は散るがそれで終わりじゃない。また春になれば花を咲かす。悲観してれば見えるものも見えなくなるさなぁ。散る花もまた美しいものだし、誰かの為にだけ生きるなんざやめて咲き誇ればいい」
 男は小野小町の句を取り出した手帳に達筆な文字で書きつけ、小野ハル、と書いた。


「ハルさん、嫁さんは捕まっちまったよ」
 誰もいない昼下がりの病院の談話室。
 その一角に、ちょこんと老人と老女が並んで腰掛けている。
 老人、村木重三は隣に座る小野ハルに静かに話す。
 ハルはただ黙って頷いた。
 ハルは七年前から体が不自由になり、誰かの介助なしでは生活するのもままならない状態になっていた。
 かろうじて寝たきりまでにはなっていないが、下の世話も必要になっていた。
 ハルの介護は全て息子の嫁がし、息子は仕事が忙しいと言って家族とまともに話をする時間など全くないに等しくなっていた。
 嫁のストレスはハルにぶつけられた。
 最初は献身的に世話をしてくれた嫁であったが、それは最初の数年だけで、ここしばらくはハルの食事も粥ばかりであったり、残り物としか思えないようなものばかりになった。ハルは人間ではなくなっていた。
 出歩くことも億劫(おっくう)になり始め、寝たきりに近い状態で、ただ家の中でテレビを見たり、ぼうっとして過ごすことが増えた。
 洗濯物をたたむぐらいは、と思ったりしたこともあったが、まるで汚いものを見るような目で嫁に冷たく当たられたこともある。
 言葉ではなく、そういった仕草や視線、そんなものがハルを傷つけていた。
 だが、あの日は。
「これからあの人はどうなってしまうの…?」
 ハルはとっさに嫁の名が思い出せず、あの人、と訊いた。
「事故だと主張してるし、状況証拠も分かってる。だから、あまり重い罪には問われないよ。でも、世間はそうはいかないだろうなぁ…これからが大変だ。ハルさんはどうするね?」
 重三に問われ、ハルはそうだねぇ、と言って膝の上にちょこんと乗せた自分の皺だらけの手を見つめた。
 事故だった。
 ふらりと部屋を出ると、嫁とぶつかった。
「気をつけてくださいっ」
 嫁の口調はいつも冷たい。ぶつかった弾みで落とした洗濯物を拾いながら、まったくいつまで生きるつもりかしら、と小さく言う声が聞こえ、ああ、ごめんなさいねぇ、と言おうとしたハルの言葉がもつれた。
 嫁はイライラしながら、拾い上げた洗濯物を手に、そこ邪魔だからどいてくださいっ、とハルにわざと強くぶつかった。
 ハルはぐらり、と世界がゆっくりと回るのを見た。
 一瞬のことだったが、なぜかとてもはっきりとハルの目には全てがしっかりと映った。
 階段を落ちたということは分かった。嫁の口と目が大きく開いて、悲鳴を上げたのかもしれなかった。
 けれど、そこから先のことは何も分からない。
 次に気づいたら病院のベッドの上で、もうすぐ小学校に上がる孫の顔が覗いていた。
「一番かわいそうなのは私より孫だよ。母親が警察に連れて行かれたんだから。いじめられやしないか、それが心配だよ」
 ハルがそう言うと、重三はハルさん、と笑みかけた。
「あんたは人のことばかりだ。少しは自分のことも考えなきゃならん。嫁さんのことも憐れんでる。違うかね?」
「…そうだねぇ…自分の為に咲き誇らなきゃねぇ。それくらいは過ぎた願いじゃないだろうよ」
「なんだね、その過ぎた願いってのは?」
「あら、やだ。あんたが言ったことだろうに。忘れたのかい?」
「いや、わしじゃないよ」
「じゃあ、誰に聞いたのかしら?よく覚えてないよ」
 誰だったかしらねぇ、とハルは首を傾げて笑んだ。
 なぜだかとても温かい気持ちでいた。
 ハルの手には孫が折った不恰好な折鶴があった。
「千年生きなきゃなぁ」 
 重三がそれを見つけて笑った。
 ハルは小さく頷いて、それから再びそうだねぇ、と強く頷いて笑った。

4.センのサル

 二時間以上待って、ようやく姿を現したのは、心よりも少し年上と思われる青年だった。
「よう、悪いなぁ」
 頭をかきながらそう言ったが、少しも悪びれた様子はない。
 門近くの公園、といっても洋風の庭園のような具合で、テーブルとイスがところどころに配されている。
 その一つに心と玄月、それからその青年の三人が座った。
「まずは自己紹介だな。俺はサル。黒猿だからな。で、渡し守はセンっていう。船頭だから」
 言って一人で笑うと、青年、サルは心と玄月がテーブルに置いた紙を取ると、うーん、と唸って破いた。
 えっ、と心と玄月が唖然とする中、サルは苦笑する。
「悪いがこれが必要になるのは七年後だ。七年待たなきゃこっちには来ない。舟から落っこちたんだ」
 はっはっはっ、と笑うサルを心は意味が分からず玄月の顔を見る。
 玄月はそれに溜め息を吐いた。
「わざと、だろ?」
 と、サルに向けて困った顔をした。
 サルは何も答えず、はっはっはっ、と笑った。
「バレたら職を失うぞ?」
 玄月がそう言うと、バレないよ、とサルはきっぱりと笑んだ。
「なぜ言い切れる?」
「ここでこの話は止まるからな。お前らは絶対言わない」
 サルが自信満々にそう言うと、玄月も苦笑した。
「二時間も何してたんだか…」
 玄月がそう呟くように言うと、センも時には道に迷うんだよ、とサルがうそぶいた。
 舟を使う者は大抵、死神が仕事中に偶然見つけた魂を岸に送った場合だ。そこから先はセンとサルに任せられる。岸はどこにでもある。岸と門を渡す、それが渡し守の仕事であるのだが。
「どうも渡し守は渡す間に無駄な仕事をしてしまうらしいな」
 そう言って玄月は笑った。けれど心は玄月が本当に『無駄』だと思っているわけではないことを知っている。
「川の下は現世だ。だから舟から落ちれば生き返る。センとサルは舟から何も落ちないようにするのが仕事だ。ただ、門まで渡すだけが仕事じゃないんだ。舟は疾い。二十分もあれば着く。それを二時間かけて落ちるように仕向けたんだろうな」
 玄月は楽しそうにそう説明した。いつもならこういう場合、心をバカ扱いするのに。
 サルと別れて心と玄月は、花流蓮と白日の元へ向かっていた。
 破られた報告書について、報告しなければならない。蓮を通して心に振られた仕事だったからだ。それに、白日が話があるらしかった。
「さて、何て報告するんだ?」
 意地悪く玄月が心を見上げる。
 心はどうしよっか、と空を仰いだ。どこまでも澄んだ空の中、悠々と真っ白な雲が流れている。
「流れのままに…報告書は紛失しました、と」

終.

 どこまでも澄んだ川の中、悠々と一艘の舟が流れる。
 ひら。
 ひらひらり。
 静かに花弁が数枚、舟の中に落ちた。
 その先には岸があり、一本の大木がしなやかに枝を広げている。
 その枝に満開に淡い色の美しい花を咲かせて。
「美しい…」
 センがそう呟くと、花の一つから女の頭が覗き、ふわり、と美しい女が軽やかに姿を現し、音もなく、重力も感じさせずに舟に降り立った。
「今日はあたしの話をしたそうじゃないか」
 女は艶やかな赤い紅を引いた唇でそう言った。
「人の身を捨てるとこうなるさねって話かい?それとも人の器を越えるとこうなるさねって?」
 くすり、と笑う女の顔に、センは困った顔をし、今日は違う『てぇま』でして、と頭をかいた。
「花の色はうつりにけりな、いたづらに…眺めるばかりじゃ、何もよくならないわぁなぁ。でも、人は眺めるばかりしかできやしない。落ちる花を戻すことも止めることも無理じゃあ、仕方のないこと。あたしのように、いっそ狂ってしまえばいいのにねぇ…そうすれば、人を超えて牢獄に入れるのにねぇ…」
 女はふいにそう言ってくすくす笑って消えた。
 そこへサルが入れ替わるように姿を現す。
「誰かと話してたのか?」
 サルが問うと、いや、とセンは笑った。そこに岸は消え、大木もなく、川の上を舟が揺れるばかりである。
「…そういや、今日のたとえ話。あんな木があるって聞いたことないぞ?」
「ああ。あれは作り話だ。適当に作った話だったが、効果はあっただろう?」
 終わりよければ全てよし、とセンは笑ったが、サルはどことなく納得できないような風で、川面を覗いた。
「何か見えたか?」
 センに問われ、サルは何も、と答える。
 つい、と舟はまたどこかの岸へと流れ始めた。

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