【心&クロシリーズ】

【冬の巣】

序.

 木の上の巣には卵が三つ。
 そこに四つ目の異なる卵が産み落とされ、親鳥は彼方へと飛び去った。
 孵った雛は三つの卵を地上に蹴落とし、舞い戻ったその巣の見知らぬ親鳥から餌を貰う。
 親鳥は愛しい我が子が地上で果てたとは知らず、また我が子と疑いもしない目の前の雛が蹴落としたとも知らず。
 本能でその巣の鳥を演じる雛は本当の親を知らず、帰るべき巣も本当はどこにもないとも知らず。
 ただ本能のままに、互いに寄り添う鳥。
 それは偽りだけれど、姿形は確かに違えどその間にあるのは、内なる気持ちは真実なのかもしれない。
 知らない世界を知るまでは。

1.

 室内の壁という壁は全て書架となっており、その高さは三階部分まで吹き抜けとなって続いている。円形の室内の中央は一階部分の高さまでの書架が、八方に広がる通路部分を残して、円形状に幾重かに配されている。
 北側に入り口があって、入ってすぐ右手に受付のデスクがあるがほとんど無人だ。ここを管理するのは老女と少年で、名を坤(コン)と乾(ケン)という。そしてこの場所は臥龍院(がろういん)という資料庫である。この世界のあらゆる情報がここに収められているのだ。
 壁面の本は一応螺旋状の細い階段と通路で結ばれているが、乾は二階分くらいの高さまでなら浮遊できるため、あまり階段を利用していない。階段は椅子代わりとして利用されていた。
 二階の通路から足を投げ出して座り、大きく分厚い本を膝に載せ、熱心に毎日毎日ここの本に囲まれて読みふける時間が一番幸せだった。
 だが、坤が下から呼ぶ声にそれが崩れ去る。
「乾っ!さっさと降りて来なさいっ」
「そんなに怒ってばっかだと血管切れるぞ」
 言いながらも乾は閉じた本を手に、ふわりと坤の立つ側の書架の上に着地し、そこから坤を見下ろした。
「ここへ来なさい」
 静かにけれど強い口調で坤に言われ、坤の指差す場所に着地する。
「いいかい?私達の仕事はここの資料を全て管理することだ。管理っていうのは分類、保管、そして」
「秘密保持、だろ?ここのは重要書類ばっかだから、役所の連中にも閲覧許可は必ず取る。耳タコだよ」
「ならどうして情報が漏れるんだい?」
「漏れる?」
 きょとん、と乾は瞬いた。厳しい目で見据える坤を見上げ、乾は事の重大さにようやく気づく。
「漏れたのかっ」
「ああ。お前が漏らしたんじゃないことは知ってる。でもね、ここを管理するのがわしらの役目。責任もわしらにある。誰が盗んだのか入館者リストをチェックして、犯人を探さなければね。それと、盗まれた情報への配慮も必要だよ。何をすべきか迷ったらここに帰って来なさい」
「って、俺一人にやらせる気?」
「そろそろお前も独り立ちしなくてはね。いい機会だ。勉強と思ってやってみなさい。それにこういう動く仕事は若いモンの仕事だろう?わしは見ての通り今にも血管が切れそうな婆だからね」
 皮肉を返されて乾は返す言葉を失った。
「盗まれた情報が何かはわしが調べておく。ちょいと手間のかかることだからね。お前はとにかく犯人を探して来なさい。盗まれたものが分かったらそれの対処もお前がやるんだ。いいね?今日は久々に忙しくなりそうだ」
 にっこりと微笑む坤に、乾は諦めたように溜め息を吐いた。

2.

 乾は坤に言われた通り犯人を探そうと、受付に置いてある利用者リストを眺めたが、盗まれたと思われる日の利用者はゼロだった。
 そもそもここを利用するのは役所の人間が大半を占めている。それもここの本を読むのではなく、ここに本を納めにやって来るのだから、ここから情報が引き出されることは滅多にない。閲覧する者さえほとんどいないのだ。だから、別に利用者リストを見るまでもない。リストに載っていない人間が情報を盗んだ、と考えるのが自然だった。なら、探す範囲は格段に広くなる。
 少し考えて乾は役所に向かった。
 役所にいる狼(ロウ)なら何かいいアドバイスをくれるはずだと思ったからだ。自分の足で探すより、人に聞いた方が早い。
「坤から伝言です。犯人探しは鬼流心という死神と一緒にやりなさい、情報は彼のものでした、だそうです」
 役所に着くなり狼にそう言われ、乾は何となく先回りされた気がして気分が悪かった。
「ちなみに酒をくれるなら、探している犯人を教えてもいいですけどね」
 だが、狼の口から漏れたその意外な一言に乾の機嫌は少し良くなった。
「なんで知ってンの?」
「私のところには常にいろんな情報が入って来るようになってるんですよ。酒と交換に犯人に心当たりのある人物を紹介してさしあげましょうか?」
「酒かぁ……俺小遣い使い果たしたからなぁ……」
「なら、その死神と一緒に探すことですね。少し遠回りにはなるでしょうが……すぐに犯人に辿り着くと思いますよ」
「そいつの知り合いか?」
「いいえ。ただ一つヒントを上げるなら、犯人は術師です」
「術師?そこまで言ったんなら答えろよ」
 乾の懇願に狼はにっこり笑んで、無言で酒を要求する。乾は諦めて分かった、と踵を返した。


「と、いうわけで、お前の情報が漏れた」
 突然、家にやって来た少年、乾は玄月よりも少し小さく、中身の年もだいぶ幼い印象を受けた。
 こたつを囲み、乾はひたすら出されたみかんを剥いては食べながら、口調だけは目下の者へ向けたような様子で説明をする。
「漏れたって、どういうことだよ?」
 玄月がそう言うと乾は茶をすすって、もう説明した、と面倒そうにそう答えた。
 心がちら、と玄月の様子を伺うと、やはり玄月の機嫌は悪くなっていた。玄月は礼節をわきまえない者を嫌う。
「鬼流心の情報が漏れた。盗んだのは術師、そう説明しただろ。理解できなかったのか?」
 乾は純粋無垢といった表情で、別段玄月をバカにするような様子もなく、きょとんとしてそう言ったので、玄月はますます機嫌が悪くなる。
「俺が言いたいのはだな、お前が何できちんとしっかりがっちり情報を管理してなかったのかってことだよ。小さな頭じゃ理解できなかったか?」
 こうなると玄月は子供以上に子供っぽくなる。
 心は静かに茶に口をつけ、黙って成り行きを見守ることにした。
「管理してた。でも、盗まれたんだ。仕方ないだろ。盗んだ奴の特定に協力しろ。自分のことだろ?」
 乾は玄月の言葉に怯むことなく、そう言い返す。
「情報が漏れたんなら謝るくらいしろっ。お前の管理責任だろうがっ!」
 玄月が怒鳴ると、乾はむっ、と口をつむった。これに玄月はにっこりと勝ち誇ったように笑った。
「さあて、謝るぐらいはしてもらおうか?」
 ふふん、と玄月が乾を見下ろすように見やるのを、心はやれやれ、と溜め息を吐いて湯飲みを置いた。
「悪いのは盗んだ奴なんだから、そんなにいじめなくてもいいだろ?」
 心がそう乾を庇うと、玄月が庇うのか?と拗ねた顔をする。
 こんな時、心はどうしても玄月が自分の何十倍も生きているとは到底思えないのである。三桁も生きてきて、全然中身も外も同じなのだから。
「庇うも何も、これは僕のことなんだから僕が決める」
 心がそう言うと、玄月は何か反論しかけた口を閉じ、そのままふい、とこたつに潜り込んだ。寒いので自分の部屋に帰ることができないのだ。
「……さっき、協力しろ、と言われましたが、僕はどうすればいいですか?」
「ここでは流れを重視するのは当然知ってるだろ?全ての物事はあるがままに流れなければならない。間違った流れを修正するには、犯人を探し出して情報を戻すってことだ。そっちで犯人を特定してくれれば、後の処理はこっちでやるよ」
「後の処理?」
「ああ。情報漏洩は重罪だからなぁ」
 乾の呟きに、こたつの中で玄月はひやり、と影が落ちるのを感じていた。
「でも、なんで俺達が犯人探しなんかしなきゃならないんだよっ。そんなのお前の仕事だろ?」
 こたつの中から玄月が吠えると、乾は知ってるんだろ、と逆に驚いた顔をした。
「なんで俺達が犯人を知ってるんだよっ」
「だって狼が言ってたよ。術師が盗んだって。で、あんた達に聞くのが一番早いってさ」
「僕達に?クロ、心当たりある?」
 玄月はない、と即答したが、全くないわけでもなかった。桜の時も水妖の時もそして先日の天使の時も。ちらちらと術師の影が心の側にはある。
 なら、今回の犯人は。

3.

「紅柳皇(こうりゅう こう)でしょうね」
 心と乾が役所へ出かけたのを見送って、玄月は真っ直ぐ白日の元を訪れた。
 臥龍院から情報が盗まれたことを話すと、白日はそうきっぱりと即答したのだった。
「なんでそいつは心に関心を持つ?」
「さあ……この間からいろいろ調べてはいるのですが、はっきりしたことは何一つ分からないのです。彼の生前の記録は全て消えてしまっていますので」
「消えた?」
「それもいつ記録が消えたか不明なのです。彼の半身が行方不明となった届を役所が受理した時に、そのことが発覚したのです」
「でも仕事の記録を管理する時に気づくだろ」
「休暇願が出されていたそうですよ。それも十年間」
「十年?長期すぎるだろ。そんなものがどうして受理されるんだよ」
「仕事で負った傷の療養期間として受理されていました。記録によれば紅柳は四肢を全て失う重症、半身も左腕を失ったそうです。紅柳の傷が完治に三年、半身が八年。そしてリハビリ期間として貰える休暇が二年。それで十年です。リハビリ期間は生身である半身にのみ与えられる休暇ですが、任期の短い術師の単独行動は原則許可されていません。なので、紅柳は十年休んでいたんです。でも、それは表向き。怪我は自作自演だったと聞きました。術でそう見せかけていたと。紅柳はなかなかの術師です。素質があったんでしょうね」
「休暇の間何してた?」
「何度も現世に行っていたと船頭は言ってましたね。橋を渡る姿を何度も見かけたと。向こうで何をしていたかは不明です。ただ……」
「ただ?」
「……彼の目的が何かは分かりませんが、鬼流様の情報は彼の目的を成し遂げる為にどうしても必要なものだったのでしょうね」
 目的……と呟いて、玄月は両腕を組んだ。
「半身が行方不明になったのはいつだ?」
「届が出されたのは五年前です。休暇終了直後になります。それ以後は元老院の判断で単独行動を許されていますが、これはあくまでも特例だそうです。仮の半身もなく単独を許可するのは、極めて珍しいケースですから」
「元老院は知ってるんだろうな。奴の目的が何なのか」
「当然でしょう。知ってて隠してるんですわ。元老院が満場一致で隠しているなんて、とても怪しいと思いません?」 
 白日が浮かべた含んだ笑みに、玄月はうんざりと溜め息を吐いた。
「何か知ってるのか?」
「いいえ。でも、元老院にはいずれ話を聞かねばと思っております」
「殺されるぞ」
「それでも皇はやろうとしているのです」
 白日の僅かな笑みから覗く感情。それは誰に向けられているのか。
「……お前……まさか紅柳のこと……?」
「違います。そんな綺麗ごとではありませんわ。私はただ彼を利用しようとしているだけです」
「利用?」
 玄月の問いに白日は答えることなく、ただにこりと変わらず笑みを浮かべただけだった。

4.

「臥龍院に情報が戻ったそうですわ」
 開け放たれた窓辺に目をやると、白い猫が一匹、厳しい表情でこちらを見据えていた。
 紅柳はそれを招き入れ、ソファから机に移動する。
 白猫はしなやかな動きでその机の上に飛び乗ると、その視線を机の上の紙切れに落とした。
 そこには染谷という文字が見えた。
「これがその写しですか?」
「白日。お前はもっと利口だと思ってたが、どうやら違ったようだな」
「脅すおつもり?」 
「呆れているだけだ。お互い素直になるにはいい機会だと思うが?」
「正直に話せるのならいい機会になるでしょうけど、そうでないのなら時間の無駄ですわ」
「なら、何をしに来た?」
「警告をしに」
 警告?と紅柳は鼻先で笑う。
「何が目的か存じませんが、情報漏洩は重罪です。この意味がお分かりでしょう?元老院は……」
「じじい共は何も言わんさ。俺の半身がどうなったか知っているからな」
 紅柳の言葉に白日の表情は険しくなる。
「そう睨むな。カッコウの話を覚えているか?カッコウは巣を持たない。他の鳥の巣に卵を産みつけ、本当の親鳥は子育てを一切しない。代わりに産みつけられた巣の鳥が世話をするんだ。自分が産んだ卵はそれより先に孵ったカッコウによって、全て地面に蹴落とされてしまってるとは知らずにな」
「何を言いたいのです?」
「孵ったカッコウはそこが自分の巣だと信じている。餌を運んで来る親鳥より大きく育とうと、それが自分の親だと信じている。本当の巣はどこにもないことも、本当の親鳥はここにいないことも知らない。だがもし、カッコウにも巣があったなら、他の鳥の卵が犠牲になることもないし、本当の親鳥に育ててもらえる。だが、そうならないのはそれが自然で、それが本能だと刷り込まれているからだ。もし、半身がここに落ちてこなければ、こんなところで一生を終えることもない。こんな場所に縛られることもない。これが自然か?俺はそれが自然だなどと認めない。そんな自然があってたまるか」
「……半身は……どうなったのです……?」
「……さあな。俺は正しいと思うことをしただけだ。危険区域に行けば分かるさ。元老院が隠しているものが何なのか」
「それと鬼流様と何の関係が……?」
「アレは生前元老院が隠しているものを見ている。それなのにここに来てから全てを忘れている。初めはそういうフリをしているのかとも思ったが……思い出したくないんだろうな。記憶は確かに門では消えなかったのに、本人は覚えてない様子……何か調べたくなるのも分かるだろう?」
「何か分かりまして?」
「いや。ただ、元老院も俺と同じ疑問を持ったらしい。術師ではなく死神の試験を受けさせたのもその為だろう。死神が危険区域に入ることはあまりない。術師の方が関わりのある場所だからな。でも、俺の半身の件であそこに入ったのは元老院も予想してなかったようだ。お前のところのバカの仕事だったんだろう?」
 バカという言葉に白日は軽く溜め息を吐き、机の上から飛び降りると、床で人の姿になって立ち上がる。
「うちを介して鬼流様へ振られた仕事だと私は聞いています。鬼流様を初めて拝見しました折、死神と聞いて違和感を持ちました。その理由はやはり術師の素質がおありだったからなのですね。あなたが何をなさろうとしているのか、私には計り知れませんが、元老院を相手にするということがどういうことなのか、今一度よくお考えになることですね」
「それを言いにわざわざここに来たんじゃないだろう。本当は蓮を巻き込むなと言いに来たのだろう?」 
 見透かすように苦笑され、白日はいつもの穏やかな笑みを消して冷ややかな目で紅柳を見下ろした。
「白日。お前もよく知っているだろう?名は契約だ。半身の名が死神によって変わるのはその為だと。だから、お前達が死神に向ける感情は契約によるものだ。死神の助けとなるのが半身の役目なら、表面上仲の悪い奴等も半身の心は常に死神に向けられている。死神の心も半身ほど強くはないが、ここで名を与えられた以上、その名によって契約は遂行されている。だから、ここで持つ感情は作りモノなんだよ。特に自分の半身や死神に向ける感情はな」
「確かに契約で感情も縛られると聞きますが、私は今まで出会って来た死神に抱いた感情とは違うものを見つけました。バカなことと笑って頂いても結構です。私は自分の望むままに真っ直ぐ生きるだけですわ。己のエゴかもしれませんが、それはあなたも同じでしょう?いつまでも行方不明の半身を探し続けている……」
「契約のせいで探していると思っているのか?タネの割れた手品がいつまでも魔法だと思えるか。俺が探しているのは半身じゃない。出口だよ。ここから出る為のな。それが危険区域にある。半身だけが通れる出口がな」
 紅柳はそう言って白日を見やった。白日はただ、出口、と呟いて何か考え込むように沈黙した。

5.

「ですから……」
 困りますって、と狼は声をひそめて言った。
「役所の決まりだと再三申し上げたでしょう。それに他力本願はよくないですよ。こう言っちゃあ何ですがね、常に自力でどうこうしようともがくことをしないから、いつまで経ってもあなた方はへっぽこだの落ちこぼれだの言われるんですよ。少しは自分の知恵だの何だのを絞ってみてはどうですか?それに今はへっぽこでも二人いるんですから、少しは前進することもあるんじゃないですかね。ここに厄介事を持ち込まないでください。私は仕事中なんです。それはつまり忙しいということです。犯人探しはこちらでは取り扱ってございませんので、自力で遠くでやってください。以上」
 ぴしゃりと言い放って、狼はちょうどよく鳴った電話に出、愛想のいい声を出しながら、手で二人を追い払った。が、その手が止まり、その顔が不機嫌に歪む。
 心と乾はその様子に顔を見合わせ、渋々といった風に電話を置いた狼の言葉を待った。
「……悪運が強いと申しますか……情報が元に戻されていたそうですよ。おまけに元老院が間に入るようですので、この件はこれで一件落着です。ささ、通常業務に戻ってください。先程も言いましたが私は忙しいんです」
 犬でも追うように手を振って、狼は二人に背を向ける。
 二人は煮え切らない様子で、仕方なくその場を離れた。
 役所から出ると、役所の前の階段に玄月が座っている。心が声をかけると、玄月は安堵したように軽く笑んで立ち上がった。
「帰るぞ」
 玄月は全てを知っているようで、ただそれだけ言ってカラスの姿に変わり上空に舞い上がる。
 乾は不服そうに役所を振り返りながら、歯切れ悪くじゃあな、とだけ言った。
 心も役所と玄月を振り仰ぐ。
 結局誰が盗んだのか、なぜあっさり戻されたのか、そしてなぜ盗んだのか、何も分からないままだった。そして、何の説明もないまま、ただ元老院が調査するということでこの件は処理された。
「何か知ってるだろ?」
 互いにずっと黙ったままだったが、もうすぐ家に着くというところで心はそう口を開いた。
 上空を舞っていた玄月はその言葉に、ふわりと地上に人の姿で降り立つ。そして、心の正面に向き直ってその目を真っ直ぐに見上げた。
「……白日は花流蓮と一緒にこの件の背景を極秘に調査することに決めたみたいだ。元老院が関わっているってことが、お前にもどういうことか分かるだろ?お前だって何かおかしいと思ってるんだ。あいつ等がただで済む訳ない。それから、お前の情報を盗んだ術師もな。その術師は白日の知り合いだ。だから白日は必死にそいつを止めようと……」
 言いかけて玄月は首を振る。
「いや、違うな……そいつと同じ道を、そいつが信じた正義を一緒に信じようとしてるのかもしれない」
 そう言い直した。
「じゃあ犯人を知ってるんだね?」
 心の問いに玄月は一瞬、間を置いて頷いた。
「紅柳皇って術師だ。この間のセラフィムはそいつの半身になった。そいつの半身は今も行方不明らしい。何があったのか、そこまでは白日も知らない」
 そっか、と心は他人事のように呟いて空を仰いだ。
 そこには見えない膜がある。薄い膜なのに破れることはない。高い空が見えるのに、この檻の中では空はとても低い。目に見える高さと触れられる高さはあまりにも違う。
 この空を見上げる度、心は玄月を思う。羽のある玄月がここから一生出られないのに、羽のない心はいずれここを出て行くことができる。
 ここには天国も地獄もなくて、ここは天国でも地獄でもない。
 だから、ここは完全に善悪だけの世界じゃない。生前の世界と同じ、理不尽なことも多い世界だ。それは、誰かが気づかなきゃいけないことで、誰かが動き出さなきゃならないことだ。
 ここで生きていくからには。
 ここで誰かと生きていくからには。
「その紅柳って人、どこに住んでるか知ってる?」
「は?」
「会って話してみたいんだ。僕は被害者だ。だから僕にはこの件について話を聞く権利がある。だろ?」
「だろ?ってお前っ」
「知らないなら白日に聞くからいいよ。役所でも調べられるし。それと、僕一人で話を聞きに行く」
「相手は術師だぞ?得体の知れん奴に一人で会うなんて……」
 止めようとしたが、心の目を見て玄月は諦めた。一度決めたら直進するしかできない奴だと玄月はよく知っていた。あまり我侭は言わないが、こういう時だけは頑固になる。
 大きく溜め息を吐いて、分かった、と玄月は踵を返した。
「今から行って来い。夕食、今日は俺が作っておいてやるけど、あんま遅くなるなよ」
 言いながら家に向かって歩く玄月の背にありがと、と笑って心は役所へと引き返した。

終.

 広い室内の中央にはドーナツ状の大きな円卓がある。そこにまばらに数人が座っていた。
「困ったことになりましたな」
 一人が溜め息を吐いた。
「これはちと厄介だ。記憶を持った人間が二人もおると、アレが公に出てしまうかもしれん。そうなると混乱が起こるのは必至。この世界の均衡も脅かされることになりかねん」
 別の者が顔をしかめる。
「では具体的にどうなさるおつもりかね?さっさとその二人を下に送り返すのかい?」
「それでは半身が残ってしまう。厄介なのはむしろ半身の方じゃないかね?アレが何の為に存在し、なぜ隠してきたか、それを説明した方が彼らも納得して諦めると思うが?」
「いやいや。説明すればしたでいらぬ混乱がさらに生じるとも限らん。ここは慎重に不穏分子を全て処分する方が得策と思わんかね?」
「処分の理由はどうする?皆を納得させねばならん。それに、まだあのことも片付いておらぬ今、これ以上いらぬ波風を立てぬに限ると思うがな」
 そこで僅かに沈黙が室内を包んだ。
「埒があきませぬな。少し強引かもしれんが、封鎖して様子を見てはいかがかね?濁った池に魚がいるかどうか、石を投じてみるのがよろしかろうて」
 そう言って席を立った者の背を誰もが溜め息を吐いて見送った。
「石ねぇ……もうすでに投じてるんだけどなぁ」
 誰にも聞き取れぬ声で、一番最後まで室内に残っていた者が呟いた。深く被ったローブの中で軽く苦笑する。
「自然てのはうまくできたシステムだ。ごく一部を見て理不尽だと言うのは間違いなんだけどねぇ……その理不尽を正したところで、今度はまた別の理不尽さが生じることになる。だから、諦めろとしか言えないんだ」
 悪いね、と誰にともなく言ってようやく席を立ち、部屋を後にした。